一般社団法人 もっと自分の町を知ろう

大人の学び直し講座

大人の学び直し講座 開催中!

 9月6日よりスタートした「大人の学び直し講座」は、一般社団法人もっと自分の町を知ろうの厚意により、同法人のホームページサイト内に特設スペースを設けさせていただきました。

 「歴史から学ぶ」という共通の目的のもと連携し、今後の講座に関する最新情報や過去の講座の動画や要旨はこちらへ掲載してまいります。

 次回講座は11月7日(土)に開催します。

チラシは以下から印刷できます。(白黒印刷版)

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第1回講座(2026年9月6日)1部 ワッキーの「かごっま弁世界史漫談」1 講師:脇黒丸陽一氏

2026年9月6日(日)ほんざんホール会議室 23名参加

「現代社会を考える-紛争を読み解く鍵-」
 (1)ウクライナ紛争 



【当日の資料】(下記からダウンロードできます)

https://acrobat.adobe.com/id/urn:aaid:sc:AP:f300dde0-0a01-4266-bee7-8766dbccf133


「現代社会を考える - 紛争を読み解く鍵- ウクライナ紛争1」要旨

1 偶然から始まった私の世界史

私は高校時代、世界史の先生とトラブリまして、世界史を選ばなかったんです。ですから、世界史の講座で話しているのに、高校の世界史をほとんど習っていません。大学は関西学院大学で東洋史を学びましたが、当時の第一志望は教員ではなくJRA(日本中央競馬会)でした。近くの阪神競馬場からファンファーレが聞こえると、授業中でも急に目が覚める。ところがJRAの採用案内を見ると文学部は対象外で、目が点になりました。これが第1の挫折です。次に、新聞社への就職を希望しました。理由はスポーツ担当になったら競馬場に行けると思ったからです。教員になろうとは思っておらず、大学の単位を取得し教育実習に行き、それが終わった頃、高校時代の担任から「鹿児島の教員採用試験を受けんか」と言われました。受けてみたら試験は世界史だけでなく、地理、日本史、倫理、政治・経済まで含む「高校社会」でした。こいは大変じゃと思いながら受けたら、思いがけず合格しました。母は「よくでかした。ぼんくらが」と喜びましたが、私は、こいからどうすればよかどかい、と困ったほどでした。そんな私が退職まで世界史を教えたんですから、人生は分からんもんです。今回は年号を覚える授業ではありません。今の出来事の根っこを、地理や民族、資源、宗教、暮らしの歴史から考えます。世界情勢を見る目を養いアンテナを広げられたらと思います。

2 ロシアがウクライナを手放せない理由

ロシア側は、ドンバスなど東部住民のロシア帰属への希望を理由に挙げます。確かに旧ソ連時代の暮らしがよく見えて、独立後の西側寄りの体制に不満を持つ住民もいます。しかし、それだけで今回の侵攻は説明できません。私が思うに、ソ連崩壊によってロシアがウクライナの巨大な工業地帯を失ったこと考えます。ドンバスには良質な無煙炭や製鉄に欠かせない石炭があり、その周辺には鉄鉱石やマンガンなどの資源もあります。日本の質の低い石炭なら黒い煙がもうもうと出ますが、ドンバスの石炭は「煙が出らんど」と言いたくなるほど燃焼効率が高いです。当然ここにソ連は大規模なコンビナートを作り上げました。さらに、ウクライナの黒土地帯チェルノーゼムは世界有数の小麦産地です。資源、工業、食料を一度に失った痛手は、モスクワにとって非常に大きかったと考えます。もう一つがNATOの東方拡大です。バルト三国やポーランドがNATOに入り、ウクライナまで加わればロシアから見れば大きな壁ができることになります。そして決定的なのが不凍港です。寒いロシアでは、北大西洋海流の影響を受けるムルマンスク以外、冬でも使える港は限られます。だから黒海への出口、なかでもクリミア半島はどうしても押さえたい場所です。トルコからすれば「また来たか」と、ひったまがるほど、ロシアは昔から黒海とダーダネルス・ボスポラス海峡を目指して南下してきました。このような理由で侵攻が正当化されるわけにはいきません。私は講義で「盗すっとみたいだ」と言ってきました。

ただ、善悪だけで眺めていては、なぜ同じことが繰り返されるのかがわかりません。ロシアの地理的な厳しい環境と、失った生産資源への執着が今回の侵攻の大きな理由と考えます。

3 平原とステップがつくった民族の回廊

東ヨーロッパは北ドイツ平原からロシア平原へと緩やかな土地が続き、ドナウ、エルベ、ドン、ドニエプル、ボルガなどの大河がゆっくり流れています。川は運河で結ばれ、古くから人や物を運ぶ道になりました。大きな山脈で遮られないため、人も軍隊も東西に動きやすい地形です。寒さは厳しく、北から吹きつけるブリザートは、ホワイトアウトを起こします。一方、南側にはステップと黒土地帯が広がり、穀物がよく育ちます。私も農業をしていますから、黒い土が水を保ちながら水はけもよいことはよく分かります。この「守りにくい平原」と「欲しくなる豊かな土地」が、東ヨーロッパの歴史を動かしてきました。コーカサス付近から西へ移動したインド・ヨーロッパ語族のうち、北へ進んだ人々がゲルマン人で、カルパチア山脈の周辺に広がった人々がスラブ人です。スラブ人は西・東・南に分かれ、東スラブにロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人が含まれます。つまり三つの民族は、もともと同じ仲間です。同じ東スラブの人々が殺し合っている。いわば、同じ日本人同士で殺し合うようなものです。

4 民族移動からキエフ公国へ

375年、東方からフン族が押し寄せると、ゲルマン民族は西ヨーロッパへ大移動しました。その後の土地へスラブ人が広がります。東ヨーロッパはさまざまな民族が行き交う回廊となり、マジャール人はハンガリーへ、ブルガール人はスラブ人と混血してブルガリアへ、ローマ系の人々はルーマニアへ定着しました。宗教も言語も違う集団が近い場所に暮らすようになり、今日まで続く複雑な民族形成が生まれたのです。スラブ人の一部が奴隷として東ローマ帝国方面へ送られたことから、スラブがslaveと表記され、「奴隷」の語源となりました。単語一つにも、支配された人々の歴史が残っています。やがてバルト海方面から来たゲルマン系のルス族が東スラブ人と混じり合い、ルーリックに始まる勢力が882年にキエフ公国を築きます。ロシアという国名も、このルスに由来します。今のウクライナの首都キーウに、ロシア国家の源流があります。

ロシアがウクライナを単なる隣国ではなく、自国の歴史の出発点と感じる理由はここにあります。共通の歴史を展開しながら、ソ連崩壊により犬猿の仲になっていったのが現実です。

5 公国 王国 帝国という支配の形態

ゲルマン人やルス族の社会では、王や有力者が戦いで功績を挙げた者に土地を与え、その土地と住民の管理を任せました。こうして公爵、伯爵、子爵、男爵などの諸侯が生まれます。侯爵の中でも力の強い者が大公となり、公国をつくりました。王が複数の諸侯を束ねれば王国となり、さらに自国以外の民族や地域まで支配すれば帝国となります。大英帝国、ロシア帝国、大日本帝国という言い方は、支配の範囲が自民族の枠を越えたことを意味します。この仕組みの中で土地を持つ者の力が強まり、農民は次第に自由を失っていきました。ロシアでは、この矛盾がのちの農奴制や専制政治につながります。今回は、ウクライナ侵攻の背景から出発し、地理、民族移動、キエフ公国、そしてヨーロッパの封建制度までたどりつきました。地理、資源、歴史を通して、現在の紛争が一つの原因だけでないことがわかります。全部を暗記しようとすると、ビンタがこんがらがります。テストの点を取るための勉強では理解できません。「こういう社旗の流れが今につながっとるんだ」という視点で考えてください。次回は、ロシアでは農民がどのように奴隷化され、そこから解放され、ロシアとウクライナが現在の国家へと向かっていったのかをお話ししたいと思います。

 

【質問者】ロシア人とウクライナ人はもともと近い民族なのに、なぜ争うのでしょうか。民族の違いより、経済的な事情のほうが大きいのでしょうか。
【陽一先生】ロシア人もウクライナ人も同じ東スラブ系の人たちです。ただ、同じ地域のクリミアのタタール人は別のアジア系です。大事なのは民族だけではなく、どこでどんな暮らしをしてきたかです。ハリコフやドンバスでは、ソ連時代に農業や大規模な工業コンビナートが発達し、暮らしぶりがよかったという歴史があります。「独立して西側に属したら、昔のようなよか暮らしができん」と感じる人も多いわけです。同民族ながらソ連時代の生活の記憶や対立する帰属意識が重なって、問題がより複雑になっています。

 

【質問者】ウクライナとロシアの違いには、キリスト教の宗派も関係しているのですか。
【陽一先生】そこは次回の大事なテーマです。キリスト教はローマ帝国の国教となった後、ローマ、コンスタンティノープル、エルサレム、アンティオキア、アレクサンドリアなどの教会に分かれ、教義の解釈も変わっていきました。それが東西教会の対外関係やユダヤ人との関係性にも影響を与えます。ユダヤ人が比較的生き延びやすかったのは、税を納めれば信仰を認められたイスラム世界でした。この宗教の分岐が国家や民族に現代社会までどう影響したのかは、次回もう少し丁寧にお話しします。 

第1回講座(2026年9月6日)2部 コピーライター今ただの歴史放談1 講師:今村太多志

2026年9月6日(日)ほんざんホール会議室 20名参加

「明治DNAの功績と、失い続けているもの」


【当日の資料】(下記からダウンロードできます)https://acrobat.adobe.com/id/urn:aaid:sc:AP:a4ed6c3d-3d8b-4407-9363-814230b0143e

「明治DNAの功績と失い続けているもの」講演要旨

1 哲学からコピーライターの仕事へ

私は鹿児島中央高校を出て、中央大学文学部の哲学科へ進みました。そこで取り組んだのがプラトンの哲学です。これがもう、わっぜ難しい。読んでも読んでも分からず、少し分かった気がしたのは三年生の頃でした。哲学だけで身を立てるのは難しかろうと思い、子どもの頃から文章を書くことが嫌いではなかったので、卒業後はコピーライターになりました。今日は正統派の歴史講義というより、哲学を学び、言葉を仕事にしてきた者の歴史放談として聞いてください。テーマは「明治DNAの功績と、失い続けているもの」です。明治の先人が何を成し遂げたのかを、制度や戦争だけでなく、日本語を使って仕事をしてきた立場から考えます。そして、その人たちが持っていた判断の物差しを、戦後の私たちはどこまで受け継いでいるのか。そこまで話を進めたいと思います。

2 明治六年の写真に写る覚悟

最初に見ていただいたのは、明治六年頃、医学を学ぶ若者たちを撮った写真です。写っているのは、武士ではなくなった旧武士の子どもたちです。廃藩置県によって藩がなくなり、父親の禄もなくなった。「これからは勉強して医者になり、自分で身を立てるしかない」と学校へ入ったのでしょう。写真には女性も二人写っています。当時なら「女のくせに」「女だてらに」と言われたはずです。それでも医者になると決めて学んだ。その覚悟は尊敬に値します。中央には外国人教師がいます。医学の授業は英語です。東京大学の歴史の授業も、招かれたドイツ人がドイツ語で講じた。昨日まで武士の家に育った若者が、外国語で最先端の学問を学んだわけですから、たまったもんじゃない。それでも食らいついたんです。

彼らを支えたものの一つが、幼い頃から身につけた漢文の素養です。武士の子どもは論語などを音読し暗唱しました。外国語の概念を漢字で受け止め、新しい日本語へ組み替える力は、そこから生まれました。

3 漢字を受け入れ日本語へ変えた力

日本語の歴史には、池へ大きな石を投げ込んだような波紋が広がったことが大きく二回あります。一度目は、紀元後二百年頃に漢字が入ってきた時です。それ以前にも日本語はありましたが、文字がなかったため、話し言葉を記録できませんでした。漢字は中国語を書く文字ですから、語順の違う日本語を表すには工夫が要ります。そこで漢文に返り点を付け、読む順番を変え、万葉仮名では漢字の音を借りました。やがて八百年代に平仮名と片仮名が整い、日本人は自分たちの言葉を自由に書けるようになります。その積み重ねが、千年頃の『源氏物語』へつながりました。『源氏物語』は世界でも早い時期に生まれた本格的な心理小説です。

『古事記』は漢文と万葉仮名が交じり、『日本書紀』は漢文で書かれています。時代が下ると『古事記』は読めなくなりましたが、本居宣長は三十五年をかけ、どれが本来の漢字で、どれが音を借りた万葉仮名なのかを読み分けました。読み方には複数の可能性があるのに、後世の学者は宣長の訓読へ疑問を差し挟まなくなった。ここにも、与えられた説明をそのまま受け入れず、自分で原文へ戻ることの大切さがあります。日本人は外から来た文字を受け取るだけでなく、日本語として使える形へつくり直してきたのです。

4 明治に生まれた数万の新しい日

二度目の大きな波が、明治維新です。開国すると欧米系の言語と共にそれまで日本になかった制度や思想、科学技術の概念が一気に入ってきました。Deskなら机、mountainなら山と訳せばいいのですが、コミュニズム(共産主義)、デモクラシー(民主主義)、などといった新しい概念には対応する日本語がなかったので翻訳不能です。そこで明治の知識人たちは、漢語的造語で新しい熟語を大量につくりました。多くが二字熟語です。歴史家の宮脇淳子氏によるとこの数は二万語~三万語に及ぶと言います。現在、新聞もテレビもこの言葉なしでは成り立ちません。

この翻訳語は、中国や朝鮮半島にも渡りました。「人民」「共和国」「民主主義」「共産主義」など、近代国家や政治思想を表す語彙として使われています。毛沢東がマルクスの『資本論』や共産主義思想を論じた背景にも、日本で生まれた翻訳語がある。中国の政治家や学者はそのことをよく知っていますが、肝心の日本人があまり知りません。国語、もしくは歴史の授業で日本人には教えるべきだと思っています。

5 翻訳語が生む理解と危うさ

ただし、翻訳はいつも正確とは限りません。feudalismを「封建主義」と訳すと、元の概念と日本人が漢字から受ける印象がずれることがあります。identityも「自己同一性」と訳されますが、それだけで意味が腹に落ちるでしょうか。かつて日米の貿易交渉で、日本側が「米は日本人のアイデンティティだ」と述べると、米国側が「自動車はアメリカ人のアイデンティティだ」と返したという話があります。便利な外来語で分かった気になっても、その中身は曖昧なままかもしれません。

明治の翻訳には、対応する語がないため仕方なく生じたずれもあります。一方で、外国語の意味を都合よく変え、政治的な運動や宣伝に利用する場合もある。言葉を仕事にしてきた私は、そこがどうしても気になります。言葉は世界を理解する道具ですが、考えることを止めれば、現実を覆い隠す道具にもなります。辞書の訳語を覚えるだけでは足りません。誰が、どの時代に、何のためにその言葉を使ったのかまで見なければいけません。

6 ドゴールの嘘とコラボレーション

ここで、ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロが語った「嘘」の話いたします。第二次世界大戦中、フランスにはナチスドイツの傀儡ヴィシー政権があり、密告によって連行されたユダヤ人が大勢いました。ところが一九四四年八月、パリ解放後の演説で、シャルル・ドゴールは、フランス国民は勇敢に戦い、自ら祖国を解放したという物語を語った。実際には占領軍へ協力した首長や公務員が多く、国民はそのことをよく知っていました。

それでもドゴールは「この話はこれでおしまい」と区切り、新しい国づくりへ進もうとした。国民はこのドゴールの演説が「嘘」だと皆知っていました。分断した国民をまとめ直すためには、その「嘘」が必要だったのです。嘘はすべて同じではありません。この「嘘」が倫理的に正しいのか誤りなのかはフランス人が決めるべきことで、他国民がどうこう言える問題ではありません。しかし、示唆に富んだ話ではありませんか。

 「コラボレーション」という言葉があります。いまは企業同士が共同企画を行う時など、明るく軽い意味で使います。しかし戦時下のフランスでは、占領したドイツ軍に積極的に協力し、自分の利益や安全を確保する者が多くいた。ヴィシー政権です。私が紹介した伊藤貫氏の議論では、ヴィシー政権、満州国、そして戦後日本を「コラボレーション国家」という視点から比べます。ただ、他国へ自国の安全保障を委ねる期間が長くなれば、国家の主体性、正統性、責任感が欠如するのは明らかです。ドゴールは米国の核の傘に頼らず、フランス独自の核抑止力を持とうという企てすらしました。フランスが独自の核抑止力を持っているのはドゴールの功績です。

7 見れば分かるという判断の物差し

日本の現状はどうでしょうか。

政治や社会の不祥事を見る時、法律に触れたかどうかだけで済ませてよいのでしょうか。福岡県議会をめぐる金銭授受の問題や、海外研修の公費の使い方が問われています。事実を調べ、違反があれば処分するのは当然です。しかし税金を不適切に使ったなら、まず返す。「弁償せんか。そいが筋じゃろ」と言える感覚が必要です。ごまかして、ふたをしてしまえば、組織の正統性も透明性も失われます。私は注目しています。

私の母と祖母は、政治を声高に語る人ではありませんでした。ただ、原爆の日の式典を見ると「戦争で苦労したのは日本中どこでン一緒」と言っておりました。祖母自身、昭和20年6月の鹿児島空襲の時、甲突川の河原へ逃げ、機銃掃射を受けています。幸い石垣に身を張り付けて弾は当たりませんでしたが、その時の恐怖感は尋常ではなかったと言っていました。機銃弾で死ぬのも、原爆で死ぬのも、亡くなる人にとっては同じだという実感があったのでしょう。特定の事象だけを強調することへの違和感を、その時の経験から持っていたようです。

 最後にスピノザの『エチカ』の話です。難しい哲学書ですが、私がそこから受け取ったのは、善いことと悪いことは、難しい理屈を唱えなくても「見れば分かるだろう」とスピノザが言っていることです。「良いことには光が見える」というような書き方をしています。

しかし現在の日本人は倫理的に正しいことも、「やってはならないこと」も何も分からなくなっているのではないか、という不安です。これは敗戦後80年を超えて未だ「コラボレーショニスト国家」に甘んじて、緊張感を欠いた生き方をしている結果ではないか、という気がしています。その結果、日本人は国家的なインテグリティ(誠実さ)、レジティマシー(正当性)、公平性を失ってしまい、倫理的視点を失っているのではないか、と私は考えています。

行動規範が「損得勘定」だけ。「それをやると幾ら儲かるの」まさに「今だけ、金だけ、自分だけ」で決めるようになってはいないでしょうか。それが、いま私たちの課題だと思っています。

ある日突然、見慣れた景色の中から、懐かしい物が消えてしまった。そんな経験をされた方は多いと思います。世の事情と言ってしまえばそれまでですが、せめて、どうにかならなかったのか、何か遺せる手段はあったのでは・・・という後悔の念だけは残ります。 個人の力では限界がある。故に、「もっと自分の町を知ろう」という共同体を創設し、有形無形の財産を次世代につなげる。これが、一般社団法人「もっと自分の町を知ろう」という団体を設立する目的です。

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