2026年9月6日(日)ほんざんホール会議室 20名参加
「明治DNAの功績と、失い続けているもの」
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「明治DNAの功績と失い続けているもの」講演要旨
1 哲学からコピーライターの仕事へ
私は鹿児島中央高校を出て、中央大学文学部の哲学科へ進みました。そこで取り組んだのがプラトンの哲学です。これがもう、わっぜ難しい。読んでも読んでも分からず、少し分かった気がしたのは三年生の頃でした。哲学だけで身を立てるのは難しかろうと思い、子どもの頃から文章を書くことが嫌いではなかったので、卒業後はコピーライターになりました。今日は正統派の歴史講義というより、哲学を学び、言葉を仕事にしてきた者の歴史放談として聞いてください。テーマは「明治DNAの功績と、失い続けているもの」です。明治の先人が何を成し遂げたのかを、制度や戦争だけでなく、日本語を使って仕事をしてきた立場から考えます。そして、その人たちが持っていた判断の物差しを、戦後の私たちはどこまで受け継いでいるのか。そこまで話を進めたいと思います。
2 明治六年の写真に写る覚悟
最初に見ていただいたのは、明治六年頃、医学を学ぶ若者たちを撮った写真です。写っているのは、武士ではなくなった旧武士の子どもたちです。廃藩置県によって藩がなくなり、父親の禄もなくなった。「これからは勉強して医者になり、自分で身を立てるしかない」と学校へ入ったのでしょう。写真には女性も二人写っています。当時なら「女のくせに」「女だてらに」と言われたはずです。それでも医者になると決めて学んだ。その覚悟は尊敬に値します。中央には外国人教師がいます。医学の授業は英語です。東京大学の歴史の授業も、招かれたドイツ人がドイツ語で講じた。昨日まで武士の家に育った若者が、外国語で最先端の学問を学んだわけですから、たまったもんじゃない。それでも食らいついたんです。
彼らを支えたものの一つが、幼い頃から身につけた漢文の素養です。武士の子どもは論語などを音読し暗唱しました。外国語の概念を漢字で受け止め、新しい日本語へ組み替える力は、そこから生まれました。
3 漢字を受け入れ日本語へ変えた力
日本語の歴史には、池へ大きな石を投げ込んだような波紋が広がったことが大きく二回あります。一度目は、紀元後二百年頃に漢字が入ってきた時です。それ以前にも日本語はありましたが、文字がなかったため、話し言葉を記録できませんでした。漢字は中国語を書く文字ですから、語順の違う日本語を表すには工夫が要ります。そこで漢文に返り点を付け、読む順番を変え、万葉仮名では漢字の音を借りました。やがて八百年代に平仮名と片仮名が整い、日本人は自分たちの言葉を自由に書けるようになります。その積み重ねが、千年頃の『源氏物語』へつながりました。『源氏物語』は世界でも早い時期に生まれた本格的な心理小説です。
『古事記』は漢文と万葉仮名が交じり、『日本書紀』は漢文で書かれています。時代が下ると『古事記』は読めなくなりましたが、本居宣長は三十五年をかけ、どれが本来の漢字で、どれが音を借りた万葉仮名なのかを読み分けました。読み方には複数の可能性があるのに、後世の学者は宣長の訓読へ疑問を差し挟まなくなった。ここにも、与えられた説明をそのまま受け入れず、自分で原文へ戻ることの大切さがあります。日本人は外から来た文字を受け取るだけでなく、日本語として使える形へつくり直してきたのです。
4 明治に生まれた数万の新しい日
二度目の大きな波が、明治維新です。開国すると欧米系の言語と共にそれまで日本になかった制度や思想、科学技術の概念が一気に入ってきました。Deskなら机、mountainなら山と訳せばいいのですが、コミュニズム(共産主義)、デモクラシー(民主主義)、などといった新しい概念には対応する日本語がなかったので翻訳不能です。そこで明治の知識人たちは、漢語的造語で新しい熟語を大量につくりました。多くが二字熟語です。歴史家の宮脇淳子氏によるとこの数は二万語~三万語に及ぶと言います。現在、新聞もテレビもこの言葉なしでは成り立ちません。
この翻訳語は、中国や朝鮮半島にも渡りました。「人民」「共和国」「民主主義」「共産主義」など、近代国家や政治思想を表す語彙として使われています。毛沢東がマルクスの『資本論』や共産主義思想を論じた背景にも、日本で生まれた翻訳語がある。中国の政治家や学者はそのことをよく知っていますが、肝心の日本人があまり知りません。国語、もしくは歴史の授業で日本人には教えるべきだと思っています。
5 翻訳語が生む理解と危うさ
ただし、翻訳はいつも正確とは限りません。feudalismを「封建主義」と訳すと、元の概念と日本人が漢字から受ける印象がずれることがあります。identityも「自己同一性」と訳されますが、それだけで意味が腹に落ちるでしょうか。かつて日米の貿易交渉で、日本側が「米は日本人のアイデンティティだ」と述べると、米国側が「自動車はアメリカ人のアイデンティティだ」と返したという話があります。便利な外来語で分かった気になっても、その中身は曖昧なままかもしれません。
明治の翻訳には、対応する語がないため仕方なく生じたずれもあります。一方で、外国語の意味を都合よく変え、政治的な運動や宣伝に利用する場合もある。言葉を仕事にしてきた私は、そこがどうしても気になります。言葉は世界を理解する道具ですが、考えることを止めれば、現実を覆い隠す道具にもなります。辞書の訳語を覚えるだけでは足りません。誰が、どの時代に、何のためにその言葉を使ったのかまで見なければいけません。
6 ドゴールの嘘とコラボレーション
ここで、ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロが語った「嘘」の話いたします。第二次世界大戦中、フランスにはナチスドイツの傀儡ヴィシー政権があり、密告によって連行されたユダヤ人が大勢いました。ところが一九四四年八月、パリ解放後の演説で、シャルル・ドゴールは、フランス国民は勇敢に戦い、自ら祖国を解放したという物語を語った。実際には占領軍へ協力した首長や公務員が多く、国民はそのことをよく知っていました。
それでもドゴールは「この話はこれでおしまい」と区切り、新しい国づくりへ進もうとした。国民はこのドゴールの演説が「嘘」だと皆知っていました。分断した国民をまとめ直すためには、その「嘘」が必要だったのです。嘘はすべて同じではありません。この「嘘」が倫理的に正しいのか誤りなのかはフランス人が決めるべきことで、他国民がどうこう言える問題ではありません。しかし、示唆に富んだ話ではありませんか。
「コラボレーション」という言葉があります。いまは企業同士が共同企画を行う時など、明るく軽い意味で使います。しかし戦時下のフランスでは、占領したドイツ軍に積極的に協力し、自分の利益や安全を確保する者が多くいた。ヴィシー政権です。私が紹介した伊藤貫氏の議論では、ヴィシー政権、満州国、そして戦後日本を「コラボレーション国家」という視点から比べます。ただ、他国へ自国の安全保障を委ねる期間が長くなれば、国家の主体性、正統性、責任感が欠如するのは明らかです。ドゴールは米国の核の傘に頼らず、フランス独自の核抑止力を持とうという企てすらしました。フランスが独自の核抑止力を持っているのはドゴールの功績です。
7 見れば分かるという判断の物差し
日本の現状はどうでしょうか。
政治や社会の不祥事を見る時、法律に触れたかどうかだけで済ませてよいのでしょうか。福岡県議会をめぐる金銭授受の問題や、海外研修の公費の使い方が問われています。事実を調べ、違反があれば処分するのは当然です。しかし税金を不適切に使ったなら、まず返す。「弁償せんか。そいが筋じゃろ」と言える感覚が必要です。ごまかして、ふたをしてしまえば、組織の正統性も透明性も失われます。私は注目しています。
私の母と祖母は、政治を声高に語る人ではありませんでした。ただ、原爆の日の式典を見ると「戦争で苦労したのは日本中どこでン一緒」と言っておりました。祖母自身、昭和20年6月の鹿児島空襲の時、甲突川の河原へ逃げ、機銃掃射を受けています。幸い石垣に身を張り付けて弾は当たりませんでしたが、その時の恐怖感は尋常ではなかったと言っていました。機銃弾で死ぬのも、原爆で死ぬのも、亡くなる人にとっては同じだという実感があったのでしょう。特定の事象だけを強調することへの違和感を、その時の経験から持っていたようです。
最後にスピノザの『エチカ』の話です。難しい哲学書ですが、私がそこから受け取ったのは、善いことと悪いことは、難しい理屈を唱えなくても「見れば分かるだろう」とスピノザが言っていることです。「良いことには光が見える」というような書き方をしています。
しかし現在の日本人は倫理的に正しいことも、「やってはならないこと」も何も分からなくなっているのではないか、という不安です。これは敗戦後80年を超えて未だ「コラボレーショニスト国家」に甘んじて、緊張感を欠いた生き方をしている結果ではないか、という気がしています。その結果、日本人は国家的なインテグリティ(誠実さ)、レジティマシー(正当性)、公平性を失ってしまい、倫理的視点を失っているのではないか、と私は考えています。
行動規範が「損得勘定」だけ。「それをやると幾ら儲かるの」まさに「今だけ、金だけ、自分だけ」で決めるようになってはいないでしょうか。それが、いま私たちの課題だと思っています。