目 次(浦辺登投稿)
④「福岡県議会傍聴記」2022年3月6日 転載文
③「『名詞』も日本語です」2022年1月26日 転載文
②「歴史認識の相違はどこから」2022年1月25日 転載文
①「日本の旧植民地台湾と朝鮮の意識の相違」2022年1月24日 転載文
大久保利通は西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」と呼ばれる。しかし、いまだ、その評価は西郷隆盛に比べて低い。特に、同じ薩摩(鹿児島県)出身であり、若き日は同志として活動していたものの、明治10年(1877)の西南戦争では勝者と敗者の関係になった。日本人の判官びいき、心情も作用し、評価の軍配は西郷隆盛に大きく傾いている。
では、なぜ、大久保は評価の対象になりづらいのか。それは、日本の封建社会における学問体系が儒学中心であったことに起因する。日本では孔子、孟子に代表される儒学が思想の中心にあった。しかし、中国での思想は儒学(儒家)だけではない。
・儒家(性善説) 孔子、孟子、荀子
・墨家 墨子
・名家 公孫龍
・道家 老耼、荘周
・法家(性悪説)管仲、韓非
・陰陽家 鄒行
中国では、家=派として、それぞれが独特の理論を戦わせており、その中でも、性善説を説く儒家の教えは、為政者に支持された。しかし、この儒家に反して性悪説を説く法家は、為政者に厳しい自律を求める。同時に、庶民には富国強兵、中央集権国家としての法治を強いるために嫌われた。自然、為政者や庶民は儒家の孔子、孟子の教えを好む。
先述の大久保は、儒家ではなく法家の『韓非子』を愛読の書とした。儒家の教えは平時には良いが、有事には機能しない。明治時代は欧米列強に囲まれた「有事」だった。故に、大久保は有事に有効な法家の『韓非子』をテキストにしたのだった。
『韓非子』は儒者からは今も「悪徳の書」と呼ばれる。それは、性善説の儒者からすればライバル関係にあることから当然のこと。しかし、明治時代は有事。性悪説の法家(富国強兵、中央集権、法治)で対処しなければ諸外国に対抗する事はむつかしい。
大久保利通を評価するには、科学思想を加味した法家の考えを理解しなければならない。為政者にとって、耳が痛い話が並んでいる。それだけに、為政者は忌避したい。しかし、まず、『韓非子』を一読してでなければ、大久保の評価は進まない。惜しむらくは、西郷と共に、短命であったことも大久保の評価に結びつかない原因にある。
令和4年(2022)7月21日
令和4年(2022)3月3日(木)の午後、福岡県議会を一般傍聴。月例で開催している「人参畑塾」(地域の歴史文化の勉強会)のメンバー5名で参加した。今回、原中まさし県議会議員が「本県の歴史的認識と今後の広報について」として一般質問をされるので、これを聞き逃すわけにはいかない。とはいえ、新型コロナウイルスの蔓延防止期間中だけに、傍聴席は厳しく人数制限をされていた。しかし、傍聴券を入手できたのは幸いだった。
原中まさし県会議員の質問趣旨は、
まず、原中県議によって廃藩置県後の福岡県の近代史を具体的に説明。さらに、中国革命の孫文(国父、革命の父)が、日本人、特に九州人と非常に近い関係にある。玄洋社の頭山満、平岡浩太郎らが孫文を強く支援していた。福岡県の財界人も支援していたと説明。議場の議員の方々も、興味深く原中県議の質問に興味深く耳を傾けていたのは傍聴する側としても壮観だった。
この質疑に対し、服部県知事、吉田教育長から回答があった。
なかでも、西公園の整備について、服部知事から加藤司書(福岡藩家老、筑前勤皇党領袖)、平野國臣に関係する公園だけに、その整備に対して前向きな回答があった。蛇足ながら、中国革命の孫文は、西公園にも立ち寄っており、このことも回答して欲しかったなあと思った・・・が、これは少々、マニアックか・・・。
とはいえ、県議会の傍聴などということは初めてのことだっただけに、実に興味深い体験だった。傍聴に際し、写真撮影、携帯電話の電源を切るのは当然だが、コート、帽子の着用不可。(多分、銃刀類を隠し持っていないかの証明のためか?)拍手や発声、パフォーマンスは禁止行為。
県知事の記者会見の際などは手話通訳者がいるが、県議会の議場においても必要に応じて手話通訳者は配置されるのか? 車椅子用の傍聴場所は用意されているが、弱視の方の為に、スクリーンがあっても良いのでは?などと傍聴しながら思った。
今回、初の県議会傍聴だったが、選挙の時だけではなく、県民も議会を傍聴するのは良い事ではと考えた。
令和4年(2022)3月6日
(「浦辺登公式サイト」から転載)
日常的に使用している「ひらがな」の源流は漢字。「あ」は安、「い」は以、「う」は宇、「え」は衣、「お」は於。これは、漢字の書体の一つである楷書から、行書、草書となって生まれた。
楷 書:角張った印象があるが、正しく書いた漢字
行 書:楷書の文字を少し崩した漢字
草 書:行書の文字をさらに崩した漢字
ひらがな:草書の崩しようがない最終形
ゆえに、漢字の最下流が「ひらがな」になる。
今、中国(中華人民共和国)では、日本の「ひらがな」の「の」を商品名に加えることが流行している。「〇〇の〇」などだが、〇の箇所に中国の簡体文字が入る。ちなみに「の」の楷書は乃になる。要は簡体文字も源流は漢字だけに、商品名に漢字の変化形である日本の「ひらがな」が入ることにデザインとしての文字の面白さを感じる。ところが、中国のナショナリズムが反発を示すという。
この話題を読みながら思い出したのは、清朝(満洲族政権の中国)末期の話。明治28年(1895)の日清戦争講和後、日本に留学する清国人が多かった。小国日本が大国清を撃ち破った要因は、日本が洋学(欧米の学問)を取り入れたからと分析。その秘密を探るべく、清国は大量の留学生を日本に送り込んだ。
そして、帰国した清国人留学生は清国政府の新進気鋭の官僚となる。官僚組織では、日本語の単語が役所で飛び交う。日本の知識に感化され、母国を見失うのではと心配する官僚トップが留学組に命令する。
「日本語の名詞を多用するのは、まかりならん」
すかざず、留学組が反論する。「今、口にされた『名詞』という単語も日本語ですけど・・・」
反発を示す中国人には「歴史に学べ」と伝えたい。知らないうちに中国社会に浸透し使用されている日本語は多い。「ひらがな」の「の」の一文字で日本への対抗心を露にするよりも、簡体文字の誕生秘話でも探ってみたらどうだろうか。
尚、『名詞』という日本語の文法用語だが、江戸時代のオランダ通詞である志筑忠雄がオランダ語から翻訳したものである。
令和4年(2022)1月26日
(「浦辺登公式サイト」から転載)
日本の歴史教科書において明治27年(1894)の日清戦争、明治37年(1904)の日露戦争は「侵略」戦争であると教える。この根源は昭和47年(1972)9月の日本と中華人民共和国(中国)との国交樹立の時に始まる。当時の中国の周恩来首相が「半世紀にわたる日本軍国主義者の中国侵略の始まり」として日清戦争(甲午中日戦争)を取り上げたからだ。周恩来首相からすれば、「半世紀」、五十年という「侵略」の長期間を強調したいとの外交的意図(外交交渉で優位に立ちたい)が見える。
しかし、近代中国(中華民国)を建国した国父の孫文は、この日清戦争について日本批判を行っていない。むしろ、日本が「革命戦争」を我々の代わりに戦ってくれたと述べる。そもそも、この中国との戦争でありながら「日清戦争」と呼称する由来は、清国(満洲族政権)との戦争だからだ。1644年から1911年までの260年余、漢民族は満洲族の植民地支配下にあった。ゆえに、漢民族の孫文とすれば。日清戦争は日本が漢民族の革命戦争(政権樹立)を代わりにやってくれたと見ているのだ。
さらに、日本とすれば、清国と結んだ不平等条約改正の戦(いくさ)が日清戦争でもあった。日本史年表には記載されないが、明治17年(1884)、明治19年(1886)の二度に渡り、長崎で清国水兵と日本の警察とがもめた。特に、明治19年の衝突では、多くのけが人、死傷者を出す市街戦を展開している。とはいえ、治外法権下の日本は清国水兵を逮捕、投獄することはできない。当時、この不平等条約改正問題は清国に限ったことではなかったが、大国として武力を誇示する清国は日本にとって脅威だった。
周恩来首相の外交交渉での演説であったかもしれないが、史実の確認もせずに「侵略」戦争として受け入れる。なんと、情けない日本だろうか。国父の孫文と周恩来首相の主張の相違は歴史認識の相違につながる。早急にこの歴史の不平等を解消すべきと考える。
令和4年(2022)1月25日
(「浦辺登公式サイト」から転載)
大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)後、かつて日本の植民地であった台湾は中華民国が統治し、朝鮮は北朝鮮と韓国とで分割統治することとなった。その旧植民地である台湾と韓国との日本に対する接し方が異なると言われる。簡単に言えば、「親日の台湾」「反日の韓国」である。この相違の原因はどこにあるのか。
一、島の台湾と半島の韓国
二、民政の台湾と軍政の韓国
三、交際の短い台湾と交際の永い韓国
台湾は、清国(満洲族政権の中国)から「化外(けがい)の地」と呼ばれていた。化外とは、清国皇帝の徳が及ばない未開の地という意味。反して、朝鮮は清国の属国であり、支配下にあった。良く言えば、清国皇帝の影響力が及ぶ地域。
台湾が日本領に組み込まれた後、児玉源太郎が総督になった。しかし、実際の治政は後藤新平という医者が民政長官として行った。アヘン撲滅、衛生環境整備、インフラ整備に注力した。アフガニスタンで銃弾に倒れた中村哲医師が現地で尊敬の対象であったように、衛生環境の整備は地元民に喜ばれる。しかし、併合後の朝鮮では、同じ軍人が総督でも、施政官は陸軍の憲兵司令官。徹底した言論弾圧、統制だった。国境を接するロシア、清国の扇動者を排除する目的があったからだが、統治下の民は息苦しく、反発を覚える。
歴史的に台湾と日本とは、間接的な交易関係。反して、朝鮮とは直接的な関係が永かった。ゆえに、相互に、先入観、固定観念が邪魔をする。百済(くだら)からの亡命者の受け入れ、元寇、秀吉の朝鮮征伐などもあった。ここに、人間(動物)としての感情の行き違いが生じる。
これらを踏まえ、日本と台湾、日本と韓国との関係を見ていくと、「同じ植民地」として論ずることがいかに不毛であることか。親日の台湾、反日の韓国という図式が永遠に続くとも思われない。台湾と韓国との外交をいかに考えるかが重要になってくる。
更に、なぜ、陸軍軍人の明石元二郎が台湾総督として敬慕されるように至ったのか。これはもう、「歴史に学ぶ」しかない。
令和4年(2022)1月24日
(「浦辺登公式サイト」から転載)