一般社団法人 もっと自分の町を知ろう

浦辺登コラム・寄稿文

目 次(浦辺登投稿)

㊿「玄洋社への言論弾圧の歴史から学ぶこと」
㊾「出版パーティー始末記」 (2026年3月5日)
㊽「台湾有事と言うけれど」(2026年2月26日)
㊼経済アナリスト藤原直哉氏の講演から(2026年2月20日)
㊻糸島の旧海軍基地探訪から」(2026年2月13日)
㊺「ちょうちょう」は大嘘(2026年2月4日)
今年初の講演は「高場乱先生」(2026年1月30日)
㊸年初の新年会は「九州ラーメン研究会」(2026年1月21日)
「言葉探し」西日本新聞〔風車〕欄(2026年1月8日)
㊶「気になる墓碑」西日本新聞〔風車〕欄(2025年11月3日)
㊵「GHQが封印した黒龍会」『維新と興亜』2025年10月号掲載
㊴「弾痕は訴える」西日本新聞〔風車〕欄(2025年10月1日)
㊳「義理と人情の策源地」西日本新聞〔風車〕欄(2025年9月19日)
㊲「日米の歴史にまたがる碑」西日本新聞〔風車〕欄(2025年8月20日)
㊱「個人の歴史」西日本新聞〔風車〕欄(2025年7月24日)
㉟「コメが国際金融商品になった日」『維新と興亜』2025年7月号掲載
㉞「Mikeと三池」西日本新聞〔風車〕欄(2025年6月13日)
㉝「息軒と復軒」西日本新聞〔風車〕欄(2025年5月22日)
「忘れてはならぬ先人の功績」西日本新聞〔風車〕欄(2025年4月22日)㉛「権藤成卿の思想的源流を探る」『維新と興亜』令和7年4月号掲載
「虎吉という女の子」西日本新聞〔風車〕欄(2025年3月19日)㉙「天才レーサーの姉」西日本新聞〔風車〕欄(2025年2月6日)㉘「石破首相の施政方針演説から考える事」令和7年1月30日
㉗「孫文と浪曲師」西日本新聞〔風車〕欄(2025年1月22日)
㉖「所変われば品変わる」西日本新聞〔風車〕欄(2024年12月16日)
㉕『人参畑』会報2024年11月浦辺登寄稿「廣田弘毅夫人・静子について」
武士の名誉とは」西日本新聞〔風車〕欄(2024年11月21日)
㉓「時を超えた結びつき」西日本新聞〔風車〕欄(2024年10月24日)
㉒「水洗トイレ」西日本新聞〔風車〕欄(2024年9月19日)
㉑「佐賀の風土と五・一五事件」維新と興亜2024年9月号
⑳「日本の危機救う浮橋」西日本新聞〔風車〕欄(2024年8月12日)
⑲「和平交渉」西日本新聞〔風車〕欄(2024年7月22日)
⑱「ストライキ」西日本新聞〔風車〕欄(2024年6月6日)
⑰「灯台下暗し」西日本新聞〔風車〕欄(2024年4月24日)
⑯「相生由太郎」『人参畑会報誌』(2024年3月29日)への寄稿文
⑮「疱瘡」西日本新聞〔風車〕欄(2024年3月27日)への寄稿文
⑭「五・一五事件と新興国スポーツ大会」『維新と興亜3月号』への寄稿文
⑬映画評「帰ってきたヒトラー」デヴィッド・ヴェンド監督、ティムール・ヴェルメッシュ原作
⑫「新興国スポーツ大会と日本」維新と興亜1月号より
⑪「入来文書(いりきもんじょ)に関する講演会を聴いて」
⑩「五條家御旗祭りに参加 明治維新は南朝の王政復古か」『維新と興亜』11月号掲載
⑨「玄洋社社長・平岡浩太郎の悼辞を読んだ大隈重信」『維新と興亜』9月号掲載
⑧「老農 塚田喜太郎のこと」2023年6月19日

⑦「幕末史における水戸学、国学の隆盛から」2023年6月4日
⑥「幕末史の思想の変遷について」2023年6月3日
⑤「なぜ、大久保利通は評価しづらいのか」2022年7月23日
④「福岡県議会傍聴記」2022年3月6日 転載文
③「『名詞』も日本語です」2022年1月26日 転載文
②「歴史認識の相違はどこから」2022年1月25日 転載文
①「日本の旧植民地台湾と朝鮮の意識の相違」2022年1月24日 転載文

㊿「玄洋社への言論弾圧の歴史から学ぶこと」

3月1日(日)午後1時から、講演会講師を務めた。主催者からは「平野國臣と西郷隆盛の友情」というお題をいただいていたが、これは3月末に主催者が一泊二日での鹿児島講演旅行を行なうからだった。会場の西新公民館(福岡市早良区)には、50名超の方々が参集され、会場後方には補助椅子も引っ張り出されたが全て埋まってしまった。

講演会冒頭、私たちは、なぜ、歴史を学ぶのかという意義を考えていただきたいと呼びかけた。歴史を学ぶのは、オヤジの趣味でもなんでもなく、先人の知恵を現世に生きる人々の環境改善に利用するためであり、問題解決のヒントを得るためである。いつの時代も・・・「生きにくい」。故に、少しでも改善できるように、世の中を少しでも変えることができるように、歴史に学ぶ。歴史を学ぶということは、社会運動でもある。

本来、平野國臣、西郷隆盛を語るべきだが、世間一般に「右翼」「テロリスト集団」「ブラック」「ダーク」などの汚名を着せられる玄洋社について語った。なぜ、これほどまでに忌み嫌われるのか。それは、GHQの調査分析課長ハーバート・ノーマン(カナダの外交官)が、玄洋社を超国家主義団体、「侵略」戦争の先兵と決めつけたからだ。さらに、日本共産党の徳田球一がGHQに阿ねって、玄洋社を「極右団体」としたからだ。そして、アメリカFBIのフーバー長官が黒人の人権回復運動を支援する玄洋社、黒龍会を恐れたからに他ならない。リンカーンの奴隷解放とは名ばかりで、今も黒人の地位は何も変ってはいない。

しかし、日本では来日した黒人に対して人種差別はしない。それどころか、エチオピア皇帝のハイレ・セラシエ一世の甥であるリジ・アラア・アベバ殿下と黒田雅子(子爵黒田和志・旧久留里藩当主)との婚姻話が持ち上がる。昭和9年(1934)の事だが、これを推進したのが玄洋社、黒龍会だった。黒人からすれば白人のロシアとの戦争に勝った日本は憧憬の対象。アメリカの黒人達は、日本によって大いに勇気づけられたのだった。結局、この結婚話はイタリアのムッソリーニによって破談となった。エチオピア侵略を考えるムッソリーニにとって日本はやっかいな国だった。人権回復を求める黒人暴動を恐れるFBIのフーバー長官にとっても面倒な婚姻話を盛り上げる日本だった。

現在、対米自立、対米隷属脱却を目標に日本国憲法改正を高市政権が進めようとしている。しかし、GHQの言論弾圧を受けた玄洋社、黒龍会、日本の気概ある官僚たちの苦労の歴史を知らずして憲法改正に動くことに、私は不安を抱いている。

その対アメリカとして、先人たちの交渉の事実を書評で紹介したい。

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『戦後レジームからの脱却を』久保田勇夫著、産経新聞出版(「月刊日本」令和7年1月号に掲載)

本書の著者は大蔵官僚から国土事務次官を経て、現在は西日本シティ銀行の特別顧問を務めている。多忙な日々の中、産経新聞に寄稿したものから、勝栄二郎、荒巻健二、中尾武彦、古澤満宏といった論客との対談を織り込んだ内容。全7章、250頁余を読了しての率直な印象は、これは後世に伝えるべき日本の国際金融の記録だと思った。

大東亜戦争(太平洋戦争)に敗北した日本の再興という強い志をもって、欧米との交渉に臨んだ著者の見聞は、今の時代においても有用な事々が多い。とりわけ、72頁からの「経済政策全般について見直しを」は必読の箇所といえる。「アー、ウー」の答弁で知られる大平正芳首相の時代、時代の先の先まで読んだ政策研究が行われていたことに、ただ、驚きしかない。チクリと「アベノミクス」を評する言葉も、良いスパイスとなっている。

次に、感心したのは、136頁の「アメリカを過度に意識した改正が行われるように感じる」として、アメリカの動向を見るのは良いが、日本には日本の良さがあり、何もかも対米追従の姿勢をとるのはいかがなものかとの注意には、然り、然りと同意だった。小選挙区制度についても、同様である。ここを読み進みながら、著者がアメリカの歴史、制度を熟知した上での様々なアドバイスとなっていることに気づかされる。

時に、著者が大蔵官僚時代、国際会議での通訳を務めたエピソードが面白い。報道でしか知り得ない国際会議の裏面が垣間見えて興味深い。特に、194頁の宮澤大蔵大臣(当時)を、ボルカー中央銀行総裁が呼び出す件では、官僚たちが国士として対処していた事に喝采だった。著者の国士としての姿は、第1章から存分にうかがい知れる。なかでも、玄洋社を研究する筆者としては36頁の「『玄洋社』と頭山満」が取り上げられていることに、大きな感動を覚えた。日本の近現代史に不可欠の玄洋社を理解されている著者の存在に、ただ、感謝するばかりだ。(終)
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講演会のお題である「平野國臣と西郷隆盛の友情」に戻れば、金子堅太郎と平野國臣は親戚関係になることを話した。平野神社(福岡市中央区)の拝殿横にある平野國臣顕彰碑裏面は金子堅太郎の撰文だ。ついでを言えば、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)境内に遺る小野隆助(玄洋社員、衆議院議員)の顕彰碑裏面の撰文も金子である。この小野隆助の顕彰碑に金子堅太郎が関係するのは、詳細な系譜は不明ながらも、金子の母安子が小野家の人だからだ。

この小野隆助のところには中学修猷館を経た山座圓次郎(後に外務省政務局長、中華公使)が大学進学の援助を求めて座り込みをした。無事に進学が叶い、外務省入りを果たした山座が後輩の廣田弘毅、平田知夫を外務省に引き込んだ。これは玄洋社、修猷館人脈と言ってよい。

西郷隆盛との関係でいえば、私の2作目の『霊園から見た近代日本』を語った。朝日新聞の全国版に荒俣宏氏の書評で拙著が紹介されたが、これが玄洋社のマスコミ解禁になった。この裏面を教えてくれたのが、三島由紀夫にボディビルをレッスンした玉利齊さんだった。玉利齊さんの祖父玉利喜造は西郷隆盛の強い薦めで上京し、アメリカ留学を果たした農学者だ。鹿児島大学農学部(旧鹿児島高等農林学校)正門に玉利喜造の胸像がある。

私の脱線話に頭の中はパンパンという方がおられた。しかし、まだまだ話し足りない。続きは3月末の鹿児島でやります。

㊾「出版パーティー始末記」 (2026年3月5日)

2月21日(土)の夕方から、拙著『金子堅太郎』の出版パーティーを有志の方々に開いてもらった。冒頭、出版に至る背景、抱負など、30分ほど語れとのことだった。しかし、すでに、テーブルの上にはビール瓶が鎮座し、準備万端、栓も抜かれている。そこで、短くしなければ参加された方々の怨みを買う。さりとて、何か話しをしておかねばと思い、自身の偶然を語った。

それは昨年の1月末のこと。旧友と久方ぶりに痛飲しての帰宅途上、自宅を目前にして、水路に仰向けに落ちた。幸い、水は流れておらず、堆積した泥がクッションとなり、気持ちよくコンクリートの水路の中で寝ていた。しかし、冬の深夜、「寒っ!」と目が覚めた。ここはどこ?私は酔っ払い。やおら起き上がろうとしたが、水路の枠にスッポリ上半身が挟まって、抜けない。幸い、ズボンのポケットに入れていた携帯電話は無傷。早速、国際救助隊ならぬ悪妻救助隊にヘルプコール。娘と一緒に探しに来てくれ、通りがかりの青年2人(九州大学の学生か?)に肩を担がれ帰宅。正気に戻って考えた。家族に迷惑をかけるのはお互い様。しかし、世間に迷惑をかけた輩に酒を飲む資格は無い。そこで、酒をやめた。やめた事で、『金子堅太郎』を書き上げることができた。そんな顚末を挨拶代わりにして、私は葡萄ジュースで乾杯。

本の巻末には参考文献として金子堅太郎の義弟である團琢磨の小説『光陰の刃』を入れている。時代状況を杓子定規に語るより、ストーリーを楽しむのも一興と思ったからだ。その『光陰の刃』を書評で紹介したい。

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『光陰の刃』西村健著、講談社文庫

・織りなす糸の如く暗殺する者、される者の運命が交差する

上巻、下巻を合わせ、序章に始まり、終章まで全十五章、八四〇ページ余にわたる本書は、どのように読み進めてよいやらと、一瞬、戸惑いを覚える。三井合名会社理事長の團琢磨を狙う血盟団の首領である井上日召との物語ならば、心して読み進めねばと覚悟を決める。しかし、そんな杞憂は無用だった。ストーリー展開の面白さに、ページをめくる手が先へ先へと急かせる。この昭和七年の血盟団事件の結末もわかっているのに、だ。

本書の主人公である團琢磨は明治四年(一八七一)、金子堅太郎とともにアメリカ留学を果たす。蘭癖大名の異名をとった旧福岡藩主黒田長溥の命によるものだった。團と金子は、後に義兄弟の関係になるが、勇躍、アメリカを目指した頃、そんな将来も、ましてや互いに日本の歴史に名を刻む関係になるとは思いもしなかったことだろう。

團琢磨に関しては、東京・護国寺の本堂左手の墓所、團伊能、團伊久磨などの子孫の名前、福岡県大牟田市の中核を成す三井三池炭鉱の開発事業に関わった人物という認識程度。しかし、俄然、井上日召の前半生と交互に描かれることで、当時の日本の置かれた状況が如実に浮き上がるのだった。個人的な恨みは皆無。しかしながら、日本の革命を成就するためには、そのターゲットになってもらわなければならない。まるで、続いて起きた五・一五事件において標的となった犬養毅との関係性を見るかのようだった。

この血盟団事件において、井上日召が頼ったのが玄洋社の頭山満であり、暗殺された團琢磨と頭山満は同郷の関係だ。続く五・一五事件では頭山満の嫡男である頭山秀三が事件に連座し禁錮。暗殺された犬養毅と頭山満は盟友関係にあった。本書下巻の最終章に差し掛かった際には、どうしても、五・一五事件が頭から離れなかった。「ボタンの掛け違い」などという簡単な事情では済まされない。実は、人間は見えざる糸に操られて今生を過ごしているのではないかとさえ思える。

その織りなす糸の縦糸と横糸を演じるのが、山海権兵衛と富士隈辰之助だ。史実を述べるノンフィクションには無い展開を、この二人の人物を加えることで躍動感が増し、ついつい、先を急がせる絶妙な役回りを演じる。

いかに情報が潤沢に出回る時代になったとはいえ、人間の運命には何ら一片の化学反応も示さない。さすれば、老子のいうところの自然の「無為」に従った方がよいのか。ストーリーの波に遊ばれながら、頭の片隅で、そんなことを考えていた。奥深い、「何か」を気づかせてくれる物語であるのは確かだ。

(終)

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拙著『金子堅太郎』の第7章は金子堅太郎が誘致に尽力した「八幡製鉄所」を織り込んでいる。この八幡製鉄所に関しては直木賞作家佐木隆三の『高炉の神様』が秀逸だが、佐木自身が八幡製鉄所で働いていただけに、現場の臨場感、八幡の風情すら感じる。その小説の中心人物が宿老と呼ばれた田中熊吉だが、偶然にも森田雅博氏(もっと自分の町を知ろう副理事長)の曾祖父になる。216頁にその田中熊吉の写真を載せているが貫禄が漂ってくる。

この『高炉の神様』にはグスタフ・トッペというドイツ人技師が出てくる。このトッペさんの奥さんが八幡の町で買い物をしていたのが、筑前琵琶保存会初代会主嶺旭蝶さんの実家だった。『琵琶という二字』(金子厚男著)の12頁に出てくる。金子堅太郎は筑前琵琶中興の祖と呼ばれるが、不思議な縁を感じる。その流れもあって、現筑前琵琶保存会会主の寺田蝶美さんにもパーティーに参加いただき、挨拶をいただいた。他にも嶺旭蝶さんとは実に不思議なご縁があるのだが、長くなるので割愛。

今回の『金子堅太郎』の装丁は毛利一枝さんだが、日本でも数少ない本の装丁作家だ。物書きの世界では、毛利さんに装丁をやってもらって一人前と言われる。本人にその事を告げたら、「そげなことなか。私はこれ(本の装丁)しか、しきらんと」と謙遜される。続けて、軽く飲みに行ったら年金が消えてしまうので、この仕事を続けなければならないと毛利さんは冗談で誤魔化す。毛利さんの旦那さんはドリアーノさん(イタリア人)だが、この方は数少ない筑前琵琶の製作者だ。ここでも筑前琵琶とつながるのだが、『金子堅太郎』の本を介して、毛利一枝さん、ドリアーノさん夫妻はつながる。これは私にとっても「偶然の現実」として、嬉しい限りだ。

尚、「浦辺登滑落之地」の石柱建立話もあった現場は、一年後の今、水路は埋め立てられ、転落防止柵が設けられた。なんで今頃なのか・・・。これは、偶然なのか!

㊽「台湾有事と言うけれど」

友人の紹介で、2月14日(土)の午前中、大阪の方と台湾の方とを福岡市内の史跡に案内した。

まず、旧福岡県貴賓館(福岡市中央区西中洲)に案内する。ここには昔、公会堂があり、中国革命の孫文(孫中山、孫逸仙)が大正2年(1913)3月に演説した場所だ。中国革命こと中華民国が建国できたのは日本人のおかげ、特に九州人のおかげと孫文は謝辞をのべた。

次に、水鏡天満宮(福岡市中央区天神)に案内した。ここは「天神」という地名の機縁の神社だが、ビルの間に挟まれて、多くの方が通り過ぎてしまう。菅原道真を祭神とする太宰府天満宮(福岡県太宰府市)にまで行かなくとも天満宮に参拝できる場所でもある。廣田弘毅元首相が小学生の時に揮毫した扁額が鳥居に掛かっている。廣田家は石屋であり、水鏡天満宮の氏子でもあったことが関係したといわれる。

そして、水鏡天満宮の北門正面、道路を挟んだ反対側にある勝立寺(しょうりゅうじ、かったつでら)に案内する。本日のメインとなる場所だが、ここには台湾総督を務めた明石元二郎(陸軍大将)の墓がある。しかし、寺の門扉が閉まったままであることと、周囲のビルに隠れているため、素通りされることも多い。しかし、ここは勝手知ったる通用口から寺に入り、明石元二郎の墓碑に案内する。ただ、明石元二郎墓などとは彫られてはおらず、墓石下部左右に明石夫妻の戒名が彫られているだけで明石元二郎の墓とは誰も気づかない。この墓には、髪と爪が納められている。遺体は氷詰めにして台湾に送られ、現地に葬られた。これは明石元二郎の遺言でもある。たまたま、福岡市に帰省して療養中に亡くなったが、台湾の土になるとして総督になったことから初志貫徹となったのだ。

次に、明石元二郎の顕彰碑がある筥崎宮(福岡市東区)を訪れた。この顕彰碑、拝殿から400メートル以上離れた場所にある。本来、参拝してから顕彰碑を見学になるのだが、次の移動先の都合上、先に見て参拝となった。ただ、その参道の広さ、長さに遠来のお客様は驚く。更に、そこは博多湾ですと顕彰碑が立つ場所から指さすと「ええっ!」となる。春分の日、秋分の日前後には「光の道」ができると説明。

筥崎宮の拝殿では楼門の「敵国降伏」の勅額に感心される。防人の国九州の面目役如といったところ、と言いたいが、戦い以前に徳の前に敵がひれ伏すと説明。

夕方前には別府観光港(大分県別府市)から大阪行きのフェリーに乗船されるというので、博多駅に向かう。博多駅で昼食、コーヒーとなり、ここで現在の台湾の実情、「台湾有事」などについて情報交換。事前に台湾関連の書籍を読了していて良かったと思った次第。

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台湾亜里山物語』竜口英幸著、西日本新聞社 (「月刊日本」令和7年8月号掲載分)
・台湾の歴史は「親日」だけでは済まない

多くの日本人は、台湾と聞くと、親日という反応を示す。明治27年(1894)からの日清戦争の結果、台湾は日本領に組み込まれた。近代的な農業、鉄道、都市、衛生、学校、アヘン漸減など、日本が未開の島を快適な地域に整備したことに台湾人が感謝しているからという解釈をする。

しかし、本書の主人公高一生こと矢多一生、先住民名ウォンゲ・ヤタウヨガナの生涯から描かれる台湾の歴史は、従前、日本に伝わる話とは異なる。高一生は台湾の先住民族のツォウ族のリーダー的存在だった。一族の存続を願い、日本に従い、日本の教育を受け、地域の警察官兼教師として安寧を図った。日本人からの人種差別、蔑称にも耐えながら、豊かな暮らしを先住民族が享受できることを優先した。

ところが、日本の大東亜戦争(太平洋戦争)敗戦に伴い、環境は大きく変わる。台湾先住民族による自治を図ろうにも、大陸からの蒋介石率いる国民党軍による圧政が始まる。蒋介石の国民党は国民党で、国際政治の荒波にもまれ、庇護者であったアメリカに見放される。しかし、朝鮮戦争(昭和25年)勃発により、再びアメリカの防共の楯として利用される。矛盾した圧力は台湾の先住民族に容赦なく襲いかかる。いわゆる「白色テロ」といわれるものだが、高一生もその犠牲者だった。2018年、高一生の名誉は回復されたが、歴史に翻弄された彼の生涯は哀れとしかいえない。

著者はかつて西日本新聞社の特派員として台湾に赴いた。その知見からオランダ、明国、清国、日本、国民党統治の歴史に遡り、世界大戦、大戦後の東西冷戦構造に至るまで、簡潔に要所を押さえて台湾を語る。写真点数も100点を超え、地域地図も織り交ぜながらの解説だけに、従前の台湾史とは異なるインパクトだ。

今、盛んに日本の有識者は台湾有事を議論する。しかし、かつて、鄧小平が蒋経国に「第三次国共合作」を持ちかけた経緯を念頭に、議論されているのか疑問を抱く。 (終)
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長く、中国本土の共産党は人口抑制のため「一人っ子政策」を取り入れた。その結果、男の子は両親双方の家から貴重な後継者として大事にされる。徴兵、兵役で跡取りが戦死するなど絶対に回避しなければならない。北京政府は「台湾有事」になれば日米両軍と干戈を交えると威勢が良いが、庶民レベルでは戦争なんて止めてくれ!なのだ。兵役適齢の息子には一族揃って、戦場では「逃げろ!」と厳命するとのこと。このことは、他のチャイナ・ウオッチャーからも聞いていたが、やはり、そうなのかと納得。

鄧小平、蒋経国の時代に中国本土と台湾とが統一という話があったが、現実には「あり得ない」。なぜならば、経済格差が大きすぎて、バランスがまったく取れないという。仮に統一となっても、かつての東ドイツ、西ドイツが統一された時のような問題が多々発生する。西ドイツが東ドイツの負債を清算し、インフラ整備にも随分と投資をした。同じく統一となれば台湾が中国本土を支援することになり、台湾が破産するのだ。あえて火中の「天津甘栗」を拾う台湾人はいない。

となれば、中国共産党が崩壊したならば、古代中国のように、諸侯が独立した国を建てるのだろうか。民は国外に逃げ出すのか。
「歴史は繰り返す」というが、現世で、それを見ることになるか・・・。

㊼「経済アナリスト藤原直哉氏の講演から」2026年2月20日

「便利」か「不便」かの選択肢の真意は

2月7日(土)の午後、経済アナリスト藤原直哉先生の講演会に参加した。主催は「福岡藤原塾」だが、福岡市博多区の貸し会議室で三ヶ月に一度、開かれている。今回も日本全国から80余名の方が参加された。藤原直哉氏の講演会は全国各地で開催されている。しかし、交通費、宿泊費を費やしても、わざわざ福岡での講演会を選んで参加される方が多数いるのは、実に不思議。

私はここ数年、藤原直哉先生の講演会に参加している。講演会に参加するそもそもの発端は権藤成卿(ごんどうせいきょう、せいけい)が機縁だった。権藤成卿といっても、誰?と思われるかもしれない。そこで、藤原直哉先生著作の書評を参考にしていただきたい。

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『日本人の財産って何だと思う』藤原直哉著、三五館

・権藤成卿の日本再生論

経済アナリストの藤原直哉氏が説く、権藤成卿(1868~1937、慶応4~昭和12)の『自治民生理』だが、現今日本において、この藤原氏が説く内容を即座に理解できる人はどれほどいるだろうか。

まず、日本人が日本の歴史を知らない。それも、よく耳にする「近現代史は、受験前に終わってしまうから・・・」という日本の歴史ではない。古代からの日本の国の成り立ちからの歴史を知らないのだ。ゆえに、この藤原直哉氏の説く日本史がすんなりと頭に入ってくる人の方が少ないと思える。そんな状況で、女性天皇に反対、賛成という意見の対立が、うわべだけで、根本に達しないのも致し方ない。

さらに、藤原直哉氏が取り上げた権藤成卿という人物についても、「知っています」と胸を張って答えられる日本人は皆無に等しい。第一、この権藤成卿の出身地である福岡県久留米市においてすら、権藤成卿への関心が薄い。ゆえに、藤原氏が権藤成卿について日本再生運動の基軸にと唱えても、容易に受け入れられないのは当然だ。

日本の歴史を現代の日本人に広めたくない理由としては、日本人が日本人として覚醒し、その行動を起こすことを嫌悪する勢力が存在することを知らなければならない。権藤成卿という人物が、何を成したのかを知れば、現今日本の為政者にとって都合の悪いことが起きることが分かっているからに他ならない。翻って、それは、現在の為政者が「今だけ、金だけ、自分だけ」の政治を行っていることの証明である。

大東亜戦争後(太平洋戦争)、日本は民主主義国家に生まれ変わったと信じている人々は多い。しかしながら、それは、占領支配したアメリカにとって都合の良い民主主義であって、決して日本、日本人の為の民主主義ではない。それが実感できない方は、TPPにおいて、輸入してまで食べる必要のない農産物を押し付けるアメリカを見て取らなければならない。人は、食べなければ生きられない。生きるためには食べなければならない。その人間の生存権に関わる根本である農産物(金融商品)を押し付けているのがアメリカである。人として非道徳的な国家に、民主主義などという、庶民の暮らしぶりが安寧にと願う気持ちが皆無であることを見抜かなければならない。

もし、権藤成卿が存命であれば、TPPに対し、断固反対するであろう。それは、日本の主権を侵害し、日本を侵略する行為そのものだからだ。翻って、安いという理由で他国の農作物(人が生きる糧)を輸入する日本も、他国を侵略していることを自覚しなければならない。

本書は、藤原直哉氏が権藤成卿の『自治民生理』を基に日本再生を説く一書だが、不明な点は自ら歴史書を紐解いて理解を進めるべきだ。それが、世界でも恵まれた日本人が行う第一歩と考える。長い歴史の中から、自浄努力を重ねてきた日本人の歴史が見えてくることだろう。 (終)
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権藤成卿を語るとき、社稷(しゃしょく)、農本主義、自治民政理、共同体、制度学という単語が並ぶ。これらを理解するには、随分と多くの文献を読み込まなければならず、堅苦しい。そこで、藤原直哉先生の講演会での事例を紹介したい。それは外国人問題についてである。介護の現場、コンビニ、農場での収穫作業など、外国人労働者は多数いる。この外国人労働者について、「不便」を感じてでも外国人労働者は不要という方の挙手を求めたところ、70%近くの方が挙手された。つまり行き過ぎた「便利」は不要ということだ。

この「便利」の代表がコンビニだが、このコンビニが無限大に拡大したらどうなるかを考えた。一昨年(2024)の日本全国のコンビニの店舗数は5万7千から5万8千店。飽和状態だが、賃金の安い外国人を店員に雇い、収益を確保する。24時間営業が当然のコンビニだが、電気料金、人件費、食材の廃棄料というムダが無限に発生しても全体での収益が増えればコンビニ本体の企業は「良し」とする。私自身、一時期、ミニスーパーの裏方を担ったことがあるが、食品類は口にしたくない。店舗に届く刺身は冷凍で、陳列棚に並べて自然解凍する。ラベルに印字された期日と時間が来れば、躊躇無く廃棄。常温で届く弁当は賞味期限を延ばすため塩、砂糖、油、化学調味料、防腐剤を加えて「腐敗」防止をしている。購入者の健康など、考慮しない。食品というよりエサと同じ。単に空腹を満たし、安く、便利に24時間提供すれば良い。まるで、人間という家畜のエサを販売しているに等しい。故に、愛玩動物や家畜と同じ感覚の人間が増えるのではと、穿った見方をしてしまう。

「生きることは食べること。食べることは生きること」。人が「生きる」という原則は「衣食住」に尽きる。それを考えず、カネさえ出せば、いつでもどこでも、何でも食えるし、何でもきできる。その原則を金融商品に変えている事は本当に人の幸せなのだろうか?と考える。

藤原直哉先生の講演会で「不便」を覚悟で外国人「不要」との意思表示は、何を意味しているのか。利益優先の資本家のエゴが、万物の生命を軽視している事に直感で気づいているからではないか。大量生産、大量消費を美徳とし、廉価な外国人労働力の「利用」と食材の大量廃棄に疑問を抱いている人々ではないだろうか。

㊻糸島の旧海軍基地探訪から(2026年2月13日)

令和8年(2026)1月31日(土)、「九州大学うみつなぎ」主催の町歩きツアーに参加した。この町歩きに参加したいと思ったのは、糸島市の岐志港にある花掛神社、姫島の姫島神社にある水上飛行艇のプロペラを目にした事からだった。水上飛行艇?もしかして、ここに海軍の訓練場でもあったのか?と思い、断片的でも良いので、その確認をしたかったからだ。

驚きだった。なんと、予科練こと海軍予科練習生の訓練場が糸島にあったのだ。それも5000人もいたという。それを示す「小富士海軍航空隊跡碑」が埋め立てでできた平坦な田圃脇にあった。戦後、この航空隊の詳細な記録は焼却処分された。そのため、事実は不明。しかし、志摩歴史資料館(福岡県糸島市)で開催中の特別展示パネルを見て、隠れていた史実が浮かび上がってきた。

戦史については詳しい方と思っていたが、このパネル展示を見て、ごく一部しか知らないのを恥じた次第だった。そんな傲慢な意識を私が持つのも、次の書評を読んでいただけたら、おわかりいただけると思う。

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『宇佐海軍航空隊始末記』今戸公徳著、光人社
・特攻隊基地となった宇佐海軍航空隊

その昔、祖父母が営む理髪店が宇佐海軍航空隊(大分県宇佐市)の近くにあった。大の海軍ファンであった祖父は散髪に訪れた海軍の将兵に酒食のもてなしをしていた。翌朝、宴の後の掃除をしていた店の使用人は海軍さんの忘れものである帽子等に気づく。点呼の際、上官に殴られたら可哀想と駅館川(やっかんがわ)の向こう岸にある航空隊にまで自転車を飛ばす。ラッパが鳴る前に営門に走りこむのが大変だった。昔話で祖母がよく語ってくれたものだった。調べてみると、戦前の大分県には旧海軍の航空隊などが点在していた。さしたる産業の無い県にとって基地誘致は一村一品ならぬ「村おこし」だった。

評者が幼い頃、祖父母が待つ母の実家に向かうとき、日豊本線から見える航空自衛隊築城基地(福岡県築上郡)を、母はいつも懐かしそうに眺めていた。戦前、まだ小さかった母は店に遊びに来ていた搭乗員達に可愛がられていたとのこと。搭乗員達は戦地から様々なものを送ってきたという。母が持っていたアルバムには飛行服姿の搭乗員の写真が貼られていた。偵察機の搭乗員で名前は原さんといわれたそうだ。出撃したものの、帰ってこなかった。その母も終戦間際、駅館川に架かる小松橋の上で突然に現れた米軍艦載機の機銃掃射を受けている。

評者が幼い頃、日豊本線柳ヶ浦の駅を降り、小松橋を渡って祖父母の待つ理髪店に走った。あの町が米軍の爆撃を受ける戦場であったとは知らなかった。更に、宇佐海軍航空隊から沖縄に向けて特攻隊員が出撃していったとも知らなかった。本書には咲き誇る桜の枝を飛行服に挿し、刀を下げて特攻機に向かう搭乗員の写真が掲載されている。従容として死地に赴く武人の姿に涙を禁じ得ない。

戦後、新聞記者から作家に転じた豊田穣(1920~1994、大正9~平成6)の作品には、宇佐海軍航空隊での艦上爆撃機の訓練風景が登場する。豊田の作品は多々読んだが、敗戦間近、宇佐海軍航空隊から特攻機が出撃していた事は知らなかった。「最後の特攻」として出撃した宇垣纏(1890~1945、明治23~昭和20)海軍中将座乗の彗星艦爆を操縦したのは中津留大尉である。この中津留大尉は宇垣長官出撃の要請を受け、宇佐航空隊から大分航空隊(大分県大分市)に向かったとのことだった。

「作戦の外道」ともいわれる特攻だが、この宇佐海軍航空隊では出撃前に予科練出身者が予備士官に殴りこみをかけた場面が紹介される。特攻隊員の残した多くの遺書からは潔く死地に赴いたように受け取りがちだが、ぶつけようのない怒りの矛先がたまたま予備士官に向いたことでもわかるように、彼らとて本心は死にたくはなかった。

知覧のような特攻記念館が宇佐に建っているわけではない。それだけに、この一冊は詳細な記録が残った特攻記念館と同じである。これからも大事に読み返したい。(終)

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この『宇佐海軍航空隊始末記』を著された今戸公徳さんとは面識は叶わなかったが、書簡の往復があった。その今戸さんの手紙の中に祖父母が営んでいた理髪店のことが記されていたときには、嬉しかった。

そして、この今戸さんの著書に出てくる渡辺くみさん(193頁)については、鹿児島県霧島市「バレルバレープラハ&GEN」での講演&語り芝居で驚きの結果となった。語り芝居は岩城朋子さんが演じてくれたが、その脚本には特攻隊員からのラブレターをもらった渡辺くみさんが出てくる。なぜ!という驚きで確認すると、宇佐海軍航空隊から飛び立った特攻隊員は、霧島市の海軍第二国分基地を経て、沖縄で散華していたのだ。

ここから私の強い要望で、3年ほど前、大刀洗平和記念館(福岡県筑前町)において、私の講演と岩城朋子さんの語り芝居となったのだが・・・。

ここで珍事続出。私が講演を始めた時、目の前に霞がかかり、パワーポイントの画面がよく見えない。更に、声を出そうとしても、誰かに首を締め付けられているような感覚で気が遠くなる。次に、岩城朋子さんの語り芝居が始まると、故障でもないのに、いつも点灯しないライトが光る。念入りに確認したはずの音響装置が突然、止まる。その芝居を傍で観劇していた私はなぜかポロポロ涙が止まらない。こんな不思議は久しぶりだった。

まだ、東京で働いて居る頃、桜が満開の春三月の真昼、靖国神社境内で突然に金縛りに遭い、息ができなくなった。「オレの話を聴いてくれ!」と四方八方から夥しい数の声と圧力に押される。もう、まったく息ができず、死ぬ!と思った瞬間、心の中で「私は、あなた方の話を聴くためにここに来たのです!」と言うと、ウソのように、スッと、声と圧力は消えた。

志摩歴史資料館では、パネル展示や参考資料の現物など、全てを隅から隅まで見て回った。しかし、花掛神社、姫島神社に遺されている複葉双発の水上飛行艇「海軍エフ1号木製飛行艇」(昭和三年製)については何もなかった。たぶん、この木製の水上飛行艇は予科練習生用だったのではと思うが、まったく分からない。この事実については、新たな証言に期待するしかない。

㊺「ちょうちょう」は大嘘(2026年2月4日)

1月27日付の西日本新聞一面下部に、拙著『金子堅太郎 伊藤博文の懐刀』の新刊広告が出た。すでに1月中旬、出版社から一部が私の手許に届いていた。そこで、親しい物書き仲間に献本していたが、早速、長崎在住の松尾龍之介さんからエピソードを交えた礼状が届いた。松尾さんといえば、長崎にまつわる面白い本を出されている方だが、漫画家であり、俳人であり、直接に会って話すとオモシロ話が続々と出てくる。

「春風やあまこま走る帆掛け船」
という、ヘンドリック・ヅーフ(長崎のオランダ商館長)が詠んだ俳句から、オランダが長崎だけではなく、琉球(沖縄)でも交易をしていたことを見抜いた(読み取った?)人でもある。俳句の中の「あまこま(あまくま)」という言葉は琉球での方言で「あちこち」という意味がある。ここからオランダが長崎以外でも江戸幕府の監視の目をかいくぐり密貿易していたという証拠を掴んだのだ。事実、薩摩藩主の島津斉彬はオランダ船と洋上での密貿易をやっていたのだから、流石としか言い様がない。いずれにしても、九州に比べ江戸がいかに西洋の情報に遅れていたかが分かろうというものだ。それは情報だけではなく、学問においても同じだった。その学問の実態についての一例として松尾龍之介さんの著作で紹介したい。

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『鎖国の地球儀』松尾龍之介著、弦書房
・江戸時代の長崎人は、世界を丸ごと知っていた

本書は長崎の天文地理学者である西川如見(1648~1724)が著した『増補華夷通商考』を基にした一書。『増補華夷通商考』とは、「鎖国」政策をとる江戸時代、世界地図であり、地球儀であり、諸国の物産ガイドであり、観光ガイドとでもいうべきものだ。漫画家でもある著者が、イラストを交えて、江戸時代の人々にとって、世界がどのように見えていたかを再現した。

一般に、江戸時代は「鎖国」だったから、明治以降も西洋近代化が遅れたといわれる。しかし、よくよく調べると、それは江戸(東京)を中心とした学者や為政者の考え方であり、実際は、長崎経由の情報を江戸が消化できないだけのことだった。このことは、幕末、押し寄せる欧米列強に恐れおののいた江戸と異なり、妥協を繰り返しながらも勢力を蓄えていった西南雄藩が新政府という権力の頂点に立ったことに如実にあらわれている。ある意味、江戸(徳川)幕府は御用学者によって崩壊したと言っても過言ではない。

本書の192頁には「ドイチラント」として、現在のドイツのことが記されている。日本からどれほどの距離に位置し、政治、四季、国民について簡略に述べてある。さらに、特産物として金、銀、水晶玉などの鉱物資源が土産品として人気とも。実は、「鎖国」という言葉は、長崎のオランダ通詞志筑忠雄が翻訳した言葉だ。長崎オランダ商館勤務のドイツ人ケンペルが書いた『日本誌』を志筑忠雄が『鎖国論』として翻訳発表したのが始まりになる。ちなみに、この『鎖国論』を読んだ肥後熊本の横井小楠が一転して攘夷論者から開国論者になったのは有名な話だ。

そう考えると、西川如見が紹介した「じゃがたら文」を江戸の蘭学者として著名な大槻玄沢が「疑うべきもなき西川の偽文」と切って捨てたことが、幕末の日本にとんだしっぺ返しとなったわけだ。西川の情報を理解できない大槻玄沢の一言を江戸幕府が信用したことが運の尽きだった。西川如見の『増補華夷通商考』を幕府が重用していたなら、欧米列強に対する反応も変わったのではと思えてならない。現代においても、同じような事例は枚挙に暇もないが、学者の発言は国の行く末にも影響するので、ライバルを蹴落とす前に身の程を知らなければならない。更には、大槻玄沢の言論だからとして、近代日本の出版界までもが疑いもしないというのは実に不幸の極みだ。

地球儀を回しながら、各地の様子を空想するのは楽しいが、本書の豊富なイラストを眺めながら諸国を巡るのも、実に楽しく興味深いものだった。
 尚、著者にはオランダ通詞志筑忠雄の評伝『長崎蘭学の巨人』があるので、併読をお薦めする。 (終)

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拙著『金子堅太郎』39頁でも、福岡藩校修猷館(現在の福岡県立修猷館高校)の学生時代、金子にアメリカ留学の話が来る。そのとき、実父の金子清蔵は藩の『萬國與地図』を借り受け、世界の情勢を息子の堅太郎に解説してみせるという場面がある。スエズ運河の開削が進めば、黒船が大挙して日本近海に押し寄せるとの実父の言葉を金子は記録している。金子は嘉永6年(1853)生まれなので、アメリカのペリー艦隊が浦賀沖にやってきた年と重なる。長じるに従って、当然、黒船が異国船であるとは知っているはずだ。しかし、スエズ運河が開通すればどうなるかなど、実感が沸かなかったことだろう。

ただ、地勢的に九州の地には、ポルトガル語など、諸外国起源の単語は生活の一部となっている。「ボーブラ」はポルトガル語のカボチャであり、縁台の「バンコ(銀行のバンクと同じ意味)」もポルトガルの両替商が使っていた計量台から来ている。

さて、松尾龍之介さんから礼状が届いたことは述べたが、そこに記されていたエピソードには「へええっ」と声が出た。拙著『金子堅太郎』の116頁は「伊澤修二の『ちょうちょう』に大爆笑する」として、伊澤修二が留学生仲間を集めメイソン先生のピアノ伴奏に合わせて「ちょうちょう」を披露した件である。

ちょうちょう ちょうちょう
菜の葉にとまれ
菜の葉にあいたら桜にとまれ

小学校の音楽の授業で誰もが歌ったことがある「ちょうちょう」だが、確かに、蝶は菜の花にやってくる。しかし、桜の花には留まらない。その昔、付き合いがあった「きのこ博士」と称する東京教育大学(現在の筑波大学)の方が、「ちょうちょう」の歌詞は大嘘だと主張していたことを思い出したと、松尾龍之介さんが礼状に書き添えていた。

まあ、他愛も無いと言えばそれまでだが、
落語家ならば「歌詞だけに瑕疵(欠陥、不具合)があるようで」とオチを付け、「お後がよろしいようで」で締めるのだろう。

㊹今年初の講演は「高場乱先生」(2026年1月30日)

和8年の年も明け、今年初めての講演は「玄洋社生みの親、育ての母」とも呼称される高場乱先生についてだった。これは主催者からの依頼だったが、数日前、某氏から「玄洋社、黒龍会についてなかなか誤解が解けずに困っている」との話を耳にした。主催者には申し訳ないと思ったが、高場乱先生の話の前に、現況の玄洋社、黒龍会についての誤解を払拭しておかねばと思った。そうでなければ、高場乱先生を正確に理解できないからだ。

一般に、玄洋社、黒龍会は「右翼」「テロリスト集団」「侵略戦争を先導した団体」といわれる。しかし、そういったレッテルを貼った張本人は誰かといえばGHQ(連合国軍総司令部)、コミンテルン、FBI(アメリカ連邦捜査局)になる。GHQ調査分析課長であったハーバート・ノーマン(カナダの外交官)、コミンテルンとして徳田球一(日本共産党)、FBIはフーバー長官になる。この悪の枢軸の卑劣さを列挙したら、行数ははるかに不足する。この悪党達は自身の利権を保持するため、玄洋社、黒龍会に「悪」のレッテルを貼って封印したのだ。

まず、ここで玄洋社、黒龍会の誤解を解き、次に高場乱先生の話に移った。しかし、高場乱先生についての資料は極めて少ない。それもこれも、悪党どもが玄洋社、黒龍会に言論弾圧を加えたからだ。故に、高場乱先生にまで広く深く行き着いていないのが現実だ。しかし、まったく無し、というわけではないので、その書籍の一つを紹介したい。

『凜』永畑道子著、藤原書店
・帯刀男装の女医高場乱の生涯から見えてくるものとは

高場乱と書いて「たかばおさむ」と読む。乱という字は「らん」と読みたいが、実父である高場正山は、乱世を治めるとして「おさむ」と読ませた。乱世を治めるとなると、この名前の主は男性と思ってしまうが、高場乱は女性として誕生している。しかし、10歳のとき、正山は福岡藩庁に娘を男性として届け出、以後、苗字帯刀、男装の女医として高場乱は存在した。江戸時代の女医といえばオランダ商館医ジーボルトの娘楠本イネ(文政10~明治36、1827~1903)が著名だ。しかし、この高場乱(天保2年~明治24年、1831~1891)も眼科の女医であった。乱という名前から、誰も女性とは思ってもいなかったようだ。乱本人も自分の事を「オレ」と言って憚らない。そうなると、女医としての注目度は楠本イネに軍配があがる。

そんな数奇な運命を生きた高場乱の生涯を描いたのが本書になるが、この高場乱の生き方においてもう一つ特徴的なのが、私塾を開いた教育者でもあったということだ。この私塾、人参畑塾こと興志塾からは近現代史に名を残す玄洋社の面々が巣立った。頭山満、箱田六輔、平岡浩太郎、進藤喜平太などである。中でも、明治22年に外相の大隈重信に爆裂弾を投じて自決した来島恒喜は、世間に玄洋社の存在を大きく広めた人だった。

この人参畑塾こと興志塾の根本的な教えとして、本書の55頁に「学問はときに世の中を揺るがし万民をおもう志をつくる」と示している。簡単にいえば「学問は何のためにするのか。それは世のため人のためである」ということだ。この教えは高場乱の考えではなく、高場乱が学んだ亀井塾(亀井南冥、昭陽父子)の規則でもある。いわば、高場乱は学問の師匠である亀井南冥の思想を引き継いでいるといっても過言ではない。蛇足ながら、この思想は、亀井塾に学んだ豊後日田の咸宜園を開いた廣瀬淡窓にも受け継がれている。身分、学力、年齢、性別に関係なく、「学びたい者は学び来たれ」という亀井塾の方針が高場乱の塾に受け継がれ、自由民権運動団体玄洋社の根本となったのだ。

大東亜戦争(太平洋戦争)後、GHQ(連合国軍総司令部)によって玄洋社、黒龍会は超国家主義団体、侵略戦争の先兵を務めた団体として解散命令を受け、「右翼」のレッテルを貼られ今日に至っている。大隈重信襲撃事件においても、大隈重信を「善」、来島恒喜を「悪」と判断する風潮から、テロリスト集団とまで評される。それもこれも、表層をなぞるだけで、自身の頭で考えるという習慣を戦後教育(暗記教育)が怠ったからに他ならない。

本書は高場乱という人物の紹介を目的とした物語だが、いかに現今日本の社会が歪な制度に縛られているかが見えてくるだろう。「何のために学ぶのか」。その振り返りとしても有用な一書である。

尚、文豪森鷗外も高場乱を小説に描きたかったようだ。東京大学文学部に寄贈されている「森鷗外文庫」には高場乱の著作が納められているという。 (終)

高場乱先生は亀井南冥、昭陽父子の亀井塾に学んだ。優秀な成績であったことから、「亀井塾の四天王」と呼ばれた。その亀井塾では、「なぜ、学ぶのか」という問いかけを塾の規則の冒頭に掲げる。なぜ、学ぶのか。それは「世のため人のため」である。これは、「人作りは国造り」にも繋がる。この亀井塾の規則、教えは高場乱先生の人参畑塾こと興志塾にも引き継がれた。塾は福岡藩薬草園(現在の博多駅近く)近くにあったが、江戸時代の薬草の筆頭は朝鮮人参だ。そこで、博多の衆は面白がって高場乱先生の塾を「人参畑塾」と呼んだ。

塾の先生の評価は、その育成した弟子達の功績によって計ることができる。例えば、亀井塾の同門に豊後日田の咸宜園を開いた廣瀬淡窓がいる。咸宜園が輩出した著名な門弟には大村益次郎、高野長英など多数いる。同じく、高場乱先生の人参畑塾からも頭山満、箱田六輔、平岡浩太郎、進藤喜平太、来島恒喜など、多数輩出した。その頭山ら塾生が後の玄洋社を創設し、欧米の植民地支配を受けて苦しむアジアの人々を助けたのだ。まさに、「世のため人のため」だった。

ところで、なぜ、アメリカのFBIが玄洋社、黒龍会を畏怖するのか。それは、アメリカの抑圧される黒人達の解放運動に影響を与えたからだ。低賃金で酷使できる黒人に人権を認めたらば収益に大きな影響を及ぼす。そこで玄洋社、黒龍会を「極右」と指定し、玄洋社、黒龍会の影響を排除しようとしたのだ。アメリカ大統領でさえ手が出せなかったFBI。そのFBIをビビらせた玄洋社、黒龍会。痛快この上ない。

年初の新年会は「九州ラーメン研究会」(2026年1月21日)


令和8年(2026)の年明けから、気がつけば1月も中旬を迎えた。すでにサラリーマン生活から引退して久しい私にとって、新年会に出席する機会は皆無。そんな中、「九州ラーメン研究会」の懇親会に参加した。
私がこの「九州ラーメン研究会」に関係するようになったのは、会長の原達郎(はらたつお)さんとの出会いからだった。

40年ほど前、その原達郎さんから、「今度、読売新聞西部版の夕刊にラーメンの連載をすることになったので、ラーメンに関するエピソードがあったら教えてください」とメールが来た。そこで、私は昭和33年(1958)に発売開始となったチキンラーメンの想い出を原達郎さんに送った。この新聞連載のラーメン人情話は好評で、その後、連載が続いたラーメン話は一冊の本になった。

『ラーメンひと図鑑』原達郎著、弦書房
・人それぞれ、ラーメンに思い出の湯気が立ち上る

九州ラーメン研究会代表の原達郎氏が書き溜めた、ラーメンと人にまつわるドラマ。読売新聞西部版夕刊に連載されたものをまとめたもの。近年、ラーメンといえばエリアごとにガイドブックまでが出版され、外食における市民権を確立したのは喜ばしい。「うまい、イマイチ」の評価にさらされるという弊害が生じたのも確か。しかし、この本はそういった評価のためではなく、醤油、味噌、豚骨の区別無く、日本人ならば誰もがすすったことのあるラーメンのドラマだ。

筆者は福岡市在住。そのため九州地区のラーメンの話題が多くなるのは致し方ない。しかし、全国に博多ラーメン、豚骨ラーメンの店が進出した割には九州地区のラーメン情報、特にラーメン店の主人の個性が伝えられるということはない。地道な取材から滲み出た人間味あふれる九州エリアのラーメン情報は別の意味で美味。作家・漫画家、芸能人・スポーツマン、政治家・経済人、文化人・宇宙飛行士、やんごとなき方々がラーメンをすする。ラーメン店主も様々。その店主を訪ねて原氏の人間観察力が生きている。巷のラーメンブックではどうしても有名人ご贔屓のラーメン店が主力になりがち。けれども、庶民の楽しみであったラーメンを庶民に供してきた人々の話はコクがあってクセになる。

やんごとなき方々に登場する朱舜水(水戸光圀にラーメンを食べさせた)、聖一国師の件などはラーメンの歴史、年越しそばの起源にも触れることができ、トリビアものだと思う。

著者は他に『九州ラーメン物語』『久留米ラーメン物語』という著作がある。併読されると日本人にとってのラーメンとはなんぞや、と考えさせられる。(終)


この『ラーメンひと図鑑』には、先述の私のチキンラーメンの想い出も収まっている。発売当初のチキンラーメンは、値段(当時、1袋35円ほどだった)もさることながら、品薄で入手が難しかった。そのチキンラーメンを苦労して手に入れた父が、魔法のようにラーメンが食べられるとして作ってくれたのだ。しかし、「これはラーメンじゃない」と私が言い張り、父が激怒。母や姉もハラハラしていたのを覚えている。(結局、涙目で食べたのでは・・・)

面白いもので、この書評をインターネットのオンライン書店bk1(ビーケーワン、現在のhonto)に寄稿したのが縁で出版社の弦書房と関係ができた。その後、弦書房から新刊が出ると献本を受け、それを私が書評として投稿し続けた。そして、数年が過ぎた頃、ひょんな事から私が弦書房から本を出すことになったのだ。それが私にとっての第一作『太宰府天満宮の定遠館』になる。当時、私は東京勤務の身であり、電話や編集者の東京出張、私が福岡に帰省した際に会って打ち合わせをするというものだった。10年程前に私が福岡にUターンしたことから、今は直接に企画段階から話しをして進めるようになった。そんな話を、今年の「九州ラーメン研究会」で、原達郎さんと語った。

会員には小説家の西村健さん(福岡県大牟田市出身)や人気ラーメン店「一風堂」の仕掛け人であり、「名島亭」の城戸の大将もいる。ラーメン店主の裏話から、豚骨ラーメンの究極の旨さに菌が関係していることを発見した九州産業大学の米満教授もいる。ひとクセもふたクセもある強者の会員だけに、うんちく話は並ではない。名前は差し控えるが、複数の新聞記者も情報収集で参加している。

宇宙飛行士の若田光一さんが地球に帰還したら何を食べたいですかとの質問に「豚骨ラーメン」と答えたことから、若田さん行きつけのラーメン店はどこだ?となった。JAXAに問い合わせてもつれなく断られる。しかし、出身大学の九州大学(当時福岡市東区)近くではと目星を付け、ついに「名島亭」と判明する。その「名島亭」の城戸の大将を慕って参加する現役ラーメン店主もいる。

松田聖子や女優の吉田羊が食べていたラーメンはどこだ?との疑問には、会長の原達郎さんが「西鉄久留米駅の甘太郎」とサラリと答える。松田聖子も吉田羊も福岡県久留米市の久留米信愛女学院高校(当時)に通っていたので、裏もとっている。そこで間違いないと断言。今では、聖子ちゃんファン周知の事実となっている。

そうしたら、「私は、松田聖子、その娘に梅ヶ枝餅を送ったよ」という会員がいた。あの太宰府天満宮(福岡県太宰府市)名物の梅ヶ枝餅だが、それを松田聖子、その娘に送ってお礼の電話が親族からきたという。即座に「その店はどこですか?」と私は質問した。すると、「ああ、あの・・・です」という。これは、早い時期に太宰府天満宮に参詣し、まずは、実地で調査してみなければ。

「九州ラーメン研究会」といいながら、ラーメンだけに限らず、オートバイ、飛行機、カーレース、戦国武将、文学、旧柳川藩関係者の中村三郎こと中村天風、オノ・ヨーコなどなど、その話の範囲は広範囲なだけに、生半可な知識では追いつかない。「それは何ですか?」「それは、どういう意味ですか?」などと、話の腰を折ろうものなら、出入り禁止処分となる。

美味いラーメンを作る店主は「センスが良い」とは会員の一致した意見。センスとは強烈な個性と置き換えても良い。あの「一風堂」ですら、開店当初は閑古鳥が鳴いていた。しかし、繁盛に至る経過を直に聞いて、並々ならぬ努力(センス)に感動したものだ。

㊷「言葉探し」西日本新聞〔風車〕欄(2026年1月8日)

㊶「気になる墓碑」西日本新聞〔風車〕欄(2025年11月3日)

㊵「GHQが封印した黒龍会」『維新と興亜』2025年10月号掲載

黒龍会の復活に向けて

最近、筆者の周囲で黒龍会の名前を頻繁に耳にするようになった。多くは、玄洋社、黒龍会としてであるが、それでも、黒龍会が普通名詞として登場してくる。この背景には、ことごとくマスコミから封殺されていた自由民権運動団体の玄洋社が十五年ほど前から復活し、新聞、テレビ、インターネットにおいても扱われてきたことにある。黒龍会の実質的な代表者である内田良平は玄洋社の社員であり、内田の伯父は初代玄洋社社長の平岡浩太郎である。このことから、玄洋社が表に出てくれば、黒龍会も連なって出てくるのは、自然な流れというべきものだ。しかし、玄洋社と同じく黒龍会も昭和二十一年(一九四六)に超国家主義団体としてGHQ(連合国軍総司令部)から解散命令を受け、マスコミからは封殺された。黒龍会といっても、一般の方がご存じないのは当然。しかしながら、先々を考えた時、黒龍会がどのような組織であったかの概略を示しておかなければと考える。

黒龍会の創立目的
 黒龍会は、明治三十四年(一九〇一)二月三日に東京神田で創立された。創立にあたり、一月十三日に創立決起総会が開かれている。当初のメンバーは五十九名であり、創立目的は黒龍会が発行する「会報」に述べられている。

目的の概略は次の通りになる。
 「本会は西比利亜(シベリア)及び満洲、朝鮮における百般の事物問題を探求解釈し、之が経営を為すを以て目的とする。」
「会報」に述べられる詳細を読み進むと、黒龍会はシベリア、満洲、朝鮮の調査報告分析活動を行う経済シンクタンクであることがわかる。日本共産党の徳田球一はGHQの事情聴取において黒龍会を「日本の侵略の先兵」として位置づけ、刊行物を読めば分かると供述している。果たして、そうなのか。

 また、「会報」は日本政府の発禁処分を受けたため二号までしか発行されていない。「会報」巻末に掲載される会員氏名を確認すると256名余になる。

 黒龍会は明治十二年(一八七九)に創設された玄洋社から派生した団体だが、その創立目的は異なる。玄洋社が国会開設、憲法制定などを政府に求める自由民権運動団体から起きたが、黒龍会はシベリア、満洲、朝鮮の開拓を目的としている。玄洋社は旧福岡藩士族を中心としているが、黒龍会は玄洋社の活動に賛同する全国の志士たちが関係している。特に、旧久留米藩士族(久留米勤皇党)、旧熊本藩が目に付くが、これは明治四年の久留米藩難事件、明治十年の西南戦争の影響があると考えられる。この他、日本各地の自由民権運動団体諸氏の名前も確認できる。

 尚、機関誌の「会報」わずか二号で日本政府から発禁処分となった。その詳細な理由は不明だが、ロシア情報が掲載されていることが不適格とされたと考える。船舶数、船舶の出港入港統計、各種穀物生産量、各種畜産物飼育数、ロシアの概算予算などが掲載されているからだが、日露戦争を控えて、情報統制が働いたとみるべきだろう。

 

黒龍会の名称の意味
 黒龍会の黒龍とは、旧満洲の黒龍江省の黒龍であり、満洲中央を流れるアムール河の中国語読みになる。アムールの意味はロシア語でキューピッド(天使)であり、一般の方々が字面から受ける印象とは随分と大きな隔たりがある。なぜ、黒龍江省という地域名がありながら、組織名称になるとイメージダウンするのか。それは、大東亜戦争(太平洋戦争)時、イギリスが悪意を込めて黒龍会を「ブラック・ドラゴン」と呼称したからに他ならない。更には、カナダの外交官であり、コミンテルン活動家、日本学者、GHQの調査分析課長であったハーバート・ノーマンもイギリスの呼称に従い、黒龍会を「ブラック・ドラゴン・ソサエティ」と呼んだ。これではまるで、悪の地下組織、秘密結社のように思われても致し方ない。ここに、GHQの強かな対日戦略が見てとれる。

 ちなみに、玄洋社についてはハーバート・ノーマンは「ダーク・オーシャン・ソサエティ」と呼んでいる。「暗黒の海の秘密組織」という印象を与えるが、東洋思想の風水から言えば玄洋は北の方向の海の意味になる。実際に玄洋社発祥の地である福岡市の北方には海が広がっており、風水思想に叶った呼称である。福岡市周辺では玄洋は普通名詞として日常的に使用されている。いかに、GHQやハーバート・ノーマンが杜撰であったかと同時に、意図的に「悪」の団体として玄洋社、黒龍会を葬りたかったかが分かろうというものだ。

 

黒龍会の会員

黒龍会の会員についてはまとまった会員名簿は見当たらない。そこで、「会報」の一号、二号の巻末から主要な幹事、評議員、会員、賛助会員を拾い上げてみた。

 

主 幹:内田良平(初代)、葛生能久(二代)

 幹 事:佃信夫

 会 員:金子彌兵衛(弥平)、清藤幸七郎、可児長一、葛生玄晫(東介)、葛生修亮(能久)、吉倉汪聖、宮崎来城、本間九介、高田三六、増田良三、中野熊五郎、平山周、山方泰、中田辰三郎、権藤晨二、尾崎行昌、辻映、佐野健吉、田野橘次、秋山長次郎、的野半介

 評議員:井上雅二、田鍋安之助、中西正樹、児玉秀雄

 賛助会員:平岡浩太郎、平岡常次郎、頭山満、犬養毅、池辺吉太郎、鳩山和夫、大井憲太郎、河野広中、中江兆民

 主幹の内田良平については先に述べたが、平岡浩太郎は黒龍会の賛助会員としても名前がある。清藤幸七郎、可児長一は熊本荒尾の宮崎滔天の『三十三年の夢』にも登場する人物である。葛生玄晫(東介)も玄洋社の社員であり、葛生修亮(能久)は、内田良平死没後の幹事を引き受けた。葛生修亮(能久)は、大東亜戦争後、インド政府からインド独立を支援した人として顕彰されている。的野半介は玄洋社員であり、平岡浩太郎の義弟でもある。小笠原に潜伏中の金玉均(朝鮮開化党)を南洋探検と称して来島恒喜らと慰問に訪れた人でもあった。

 黒龍会の会員、賛助会員を見るだけでも、黒龍会がアジアの植民地解放に尽力したことが理解できる。GHQが欧米植民地の利権を奪ったとして玄洋社とともに黒龍会を徹底弾圧(報復)した事由が見えてくる。

黒龍会の機関誌

 ここで、黒龍会が発行した機関誌を見ておきたい。黒龍会の機関誌には「会報」「亜細亜持論」「東亜月報」「The Asian Review」「黒龍」の五つがあった。そのなかでも「The Asian Review」については広告掲載に至るまで全て英文で構成されており、編集委員にはポール・リシャール(フランスの詩人)がおり、権藤成卿もZ Gondo として日本文化の一つである日本刀について論を寄稿している。頭山満についての英文論考もあり、「The Asian Review」は世界中に愛読者がいたと伝わるだけに、果たして欧米はどのような解釈をしていたのか興味深く、研究課題は多い。
 
 尚、ポール・リシャールの妻ミラ(インド人)はインドでは「マザー」の尊称を持ち、大川周明とも交流があった。大川はポール・リシャールの『告日本国』の翻訳をしたことで知られるが、大川周明と黒龍会、インドとの関係が読み取れる。

 残念ながら、黒龍会の機関誌からは徳田が述べるところの「侵略」ではなくアジアの復興しか見いだせない。筆者が黒龍会の実態を解明したいと思うのは、アジアの復興に繋がるからに他ならない。

 更に、本年八月、アメリカのトランプ大統領、ロシアのプーチン大統領がアラスカで会談を行なったが、この先にはシベリア、満洲の開拓を視野に入れているからとみている。このアメリカ、ロシアの動きも見据えながら、黒龍会の先人が果たした役割を検証していきたい。

㊴「弾痕は訴える」西日本新聞〔風車〕欄(2025年10月1日)

㊳「義理と人情の策源地」西日本新聞〔風車〕欄(2025年9月19日)

㊲「日米の歴史にまたがる碑」西日本新聞〔風車〕欄(2025年8月20日)

㊱「個人の歴史」西日本新聞〔風車〕欄(2025年7月24日)

㉟「コメが国際金融商品になった日」『維新と興亜』2025年7月号掲載

コメ大臣こと小泉進次郎農林水産大臣の登場で、生命を維持する米が金融商品として扱われた。備蓄米取り扱いの随意契約に応じた企業をみても、それが如実だ。この「令和のコメ問題」から、日本古来の社稷とは大きくかけ離れてしまった淵源を探ってみたい。

 

・欧米に追随しなければならない日本
 明治四年(一八七一)十一月十日、横浜から遣欧使節団、いわゆる岩倉使節団が欧米諸国回覧の旅に出た。西洋の先進的な工業技術などを見聞すると同時に、徳川幕府が締結した不平等条約改正を含んでのことだった。正使は岩倉具視、副使に大久保利通、伊藤博文、山口尚芳(やまぐちますか)だが、他にも書記官や留学生らが便乗していた。

 この遣欧使節団が横浜を出発した後の明治五年二月十八日、大蔵少輔の吉田清成(薩摩)と大蔵少丞の大鳥圭介(旧幕臣)らがアメリカに向かった。吉田らの目的は武士の秩禄処分の外債募集だった。この武士の秩禄処分における外債募集は、留守政府を預かる参議の大隈重信(佐賀)、大蔵大輔の井上馨(長州)らの協議で決定した。

 岩倉使節団の華々しい船出が大きく取り上げられるためか、この武士の秩禄処分の外債募集については注目を浴びない。維新政府の勝者である薩摩の吉田清成、敗者の旧幕府側の大鳥圭介が加わっていることが異様だ。これは、明治二年(一八六九)五月十八日、箱館五稜郭に立てこもり、政府軍と交戦中であった榎本武揚率いる旧幕府軍が、黒田清隆(薩摩)に降伏した結果だが、大鳥圭介も榎本軍の一員だった。降伏後、大鳥は罪人として収監され、明治五年一月に無罪放免となった。しかし、その一月後には吉田に求められ外債募集の一員に選ばれたのだ。

・国辱的な外債募集
 吉田、大鳥らはアメリカに向かった。ここで早速に外債募集の手応えがあった。それはユダヤ系シフ組合だった。二千万ドル以上であれば外債を引き受けるという。しかし、金利が高い。更に、アメリカ駐在の森有礼(薩摩)が外債募集そのものに猛反対し、かつてのイギリス留学仲間であった吉田と森は大喧嘩を始めた。喧嘩ならまだしも、森は地元アメリカの新聞に日本の外債募集に応じるなとの意見まで述べた。森はこの新聞に意見を発表したことから本国召還となった。

 森の介入を嫌い、吉田らは大西洋を渡り、イギリスに赴いた。ここで、イギリス東洋銀行と外債募集の交渉に入った。この外債募集の交渉中、一足早く日本を出発した岩倉使節団と合流する。しかし、この岩倉使節団に書記官として同行していた久米邦武(佐賀)の『米欧回覧実記』、大鳥圭介の『英・米産業視察日記』には、イギリスの日本に対する扱いが乱雑なことが記されている。全権大使である岩倉も国書奉呈では英国女王の避暑地からの帰りを待つしか無く、日本では豪腕で知られる外交官のハリー・パークスも英国外務大臣からすれば超格下の存在だった。そんな信用度ゼロ、極東の小国日本の外債募集に応じてくれる金融機関があること自体が奇跡だった。

 

・外債の担保はコメ
 極東の一小国日本に投資するのはイギリスの東洋銀行だった。寺島宗則公使(薩摩)立ち会いの下、東洋銀行との外債募集の契約が結ばれた。一八七二年(明治五)三月二十三日、九月二十二日付を以て明治天皇の許可を得た。遣欧使節団の塩田三郎、福地源一郎が英訳し、副使の伊藤博文、大鳥圭介が立会人としての署名をしている。その契約内容は次の通りとなった。

 

 借入金総額 二四〇万ポンド (日本円換算で一千百七十七万二千円)

 借入金利  年七パーセント

 償還期間  二十五年 一八七三年一月一日から元利混合で返済

 担保    毎年四〇万石の米を買い入れ貯蔵

 

 日本では、この外債成功に大喜びだったが、ここで注目したいのは、米が担保となっていることだ。毎年、二十五年にわたって四十万石の米を担保として貯蔵しなければならない。人が生きるために口にする米が国際金融商品となり、日本の国体がイギリスに売られた日でもあった。

 

社稷とは古来からの国体思想
 この一連の武士の秩禄処分で思い出すのは、武士の授産事業としての安積開拓だ。現在の福島県郡山市がその現場だが、全国各地から士族が入植。その筆頭が旧久留米藩(福岡県)だが、明治十一年(一八七八)、旧久留米藩士族ら一四一戸、五八五名が開拓民として入植した。いわゆる刀を鍬に持ち替えての農業に励んだのだ。

 更に、荒れ地の広がる原野だけに、米を収穫するには水が必要。これには猪苗代湖(福島県)から幹線疎水五十二キロを設けたが、分水路は七十八キロにも及んだ。これが安積(あさか)疎水と呼ばれるものだ。今も郡山市開成館で入植者たちの住居を見学できるが、板張りにムシロ敷き。床下からは寒風が吹き上げるという過酷な住環境だった。あまりの悲惨さに夜逃げする者もいたという。この当時については宮本百合子の小説『貧しき人々の群れ』が著名だ。

 筆者は令和六年(二〇二四)十月、現地の福島県郡山市を訪ねた。安積疏水の源流である猪苗代湖の水門も見学した。郡山市郊外の、稲刈りが終わった延々と広がる稲田には声を失った。この安積開拓には政府の大久保利通、安場保和らが予算付けをするなどして支援したが、大久保も安場も遣欧使節団の団員だった。北米大陸の大規模な農地開発を目にして、アメリカ開拓民に可能ならば日本人もできると考えたのだろうか。それとも、日本古来の社稷が喪われていくことに危機を抱き、再興を願ったのだろうか。

 ここで、筆者は黒龍会の『亜細亜時論』二月号(大正八年二月一日刊)に掲載された内田良平の「我が国体と忠孝」の冒頭を紹介したい。

 「社稷は共存の目的を以て成立し、進んで国家を組織するに至れるものなり。蓋し社稷は衣食の意にして、社は土地、稷は禾穀(かこく)(稲、麦、粟、稗の総称)なり。禾穀は土地に生じ、土地禾穀は人無くして用を為さず。而して人類禾穀は天の雨露あるにあらずんば化育(かいく)(天地自然が万物を生じ育てること)する能はざるなり。凡そ天地間の万物は悉く単なる独立の資質なし。相寄り相集つて初めて事物の用を成すものなれば、相寄り相集つて共存するの義此に起り、相寄り相集るを得る所以のもの、和親の義あるによってなり。故に和親の義は実に社稷創剏(そうそう)(初めて創り出す)の根元となす。」
 日本古来の農業に不可欠の「社稷」は国体であると述べているが、内田の社稷感は当時の人々の共通の思想であったと考えて良い。

 

・日本の復興の源泉であった米 
 現在も福島県郡山市で米農家を営む方から親しく話を伺うことができた。日本が大東亜戦争(太平洋戦争)に敗戦後、日本の復興には米が必要といって増産したという。「だって、食わなきゃ、働けねぇ。働かなきゃ、日本の復興はねぇ。だから、米をいっぱい作って東京に送ったんだ。」

 需要と供給、価格だけではない、「令和のコメ騒動」は生命を維持する食物である米が金融商品として扱われていることに問題があるのだ。カネを出せばコメは買える。備蓄米の随意契約に応じる企業群を見て、地域共同体と認識した国民は皆無に等しいのではないか。武士の秩禄処分の外債募集の時と同じく、備蓄米を金融商品と見る悪弊は止めて欲しい。そして、明治期の農地の開拓があり、米の増産があったからこそ、戦後の日本を再興することが可能であった。この事実に為政者は気づいて欲しい。

 何より、旧久留米藩士族(久留米勤皇党)の入植地には久留米(福岡県)から勧請した「水天宮」が鎮座していることを見て欲しい。

㉞「Mikeと三池」西日本新聞〔風車〕欄(2025年6月13日)

㉝「息軒と復軒」西日本新聞〔風車〕欄(2025年5月22日)

㉜「忘れてはならぬ先人の功績」西日本新聞〔風車〕欄(2025年4月22日)

㉛「権藤成卿の思想的源流を探る」『維新と興亜』令和7年4月号掲載

・権藤家の始祖権藤種茂
権藤成卿(明治元年~昭和12年、1868~1937)の『自治民範』『皇民自治本義』など、その思想の源流はどこにあるのだろうか。突然、彗星の如く天才権藤成卿が登場し、思想を披瀝したわけではない。権藤家には脈々と流れる思想の体系があるのではないか。そこで、権藤家の系譜を遡ることで、権藤成卿の思想の根幹を考えてみたいと思う。

まず、権藤成卿の系譜は一般に「筑後府中・権藤氏」といわれる。筑後府中とは、現在の福岡県久留米市を指すが、筑後府中権藤氏の始祖は権藤種茂であり、立花宗茂(筑後柳川藩主)の同族であり、武士だった。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いには西軍として参戦した権藤種茂だが、敗軍の兵として諸方を転転とし、府中(福岡県久留米市)に落ち着いた。

関ヶ原の戦いに西軍として参戦した立花宗茂だったが、徳川家康によって奥州棚倉(福島県白川郡)1万石の領主に封じられた。しかし、元和6年(1620)に旧領の筑後柳川藩(10万9200石)に復帰を赦された。これは、異例中の異例であり、立花家が戦国武将の中でも特殊な利権を持っていたからに他ならない。「狸オヤジ」の異名を持つ家康とすれば、幕政を司るにあたり、是非にでも立花家の力が必要だったからだ。この立花宗茂の旧領復帰にともない、宗茂は種茂に柳川藩に仕えるよう再三にわたって説得する。しかしながら、種茂は医者として生活するとして宗茂の申し出を丁重に断った。

再休こと権藤種茂は親友の儒学者安東省庵(あんどうせいあん)、農学者北村正典(きたむらまさつね)と親交を深めた。安東省庵は柳川藩の碩学であり、北村正典は「農聖」の異名をいただくほどの農業実務に長けた人だった。権藤家が医家でありながら漢籍に詳しく、更に農本主義を標榜する基礎は始祖である権藤種茂にあったのだった。

尚、種茂のもう一人の子息である種弘は、立花宗茂の紹介で筑前福岡藩に仕官する立花家に召し抱えられ、「筑前権藤氏」を名乗ることになった。この筑前権藤氏の権藤種弘も医師として筑前立花家に仕えた。種弘は医師としての才能が優れていたようだ。晩年には初代福岡藩主の黒田長政にも重用されている。


・「府中権藤氏」中興の祖権藤宕山
「府中権藤氏」を継承したのは、権藤種茂の次男である種良だった。この種良については儒医(儒者であり医者)として家督を継いだということしか伝わっていない。元禄5年(1692)5月13日に死没したが、その生年も死没時の年齢も不詳となっている。

この種良の息子であり、始祖種茂の孫に権藤宕山(ごんどうとうざん)(寛文4~享保15、1664~1730)がいる。本名は栄政(よしまさ)といい、医名は寿堅という。この宕山は早くから英才教育を授けられ、祖父の親友である筑後柳川藩の碩学安東省庵(あんどうせいあん)(元和8~元禄元、1622~1701)に師事した。更に、権藤家の家業ともいうべき医業では、明国(中国)から長崎に亡命してきた鄭一元(16世紀~17世紀)に薬学を学んだ。更には、江戸在住の親族であり儒医でもある権藤種賢に診察術を学んだという。

宕山は医者としての名声が高かったが、諸侯からの招聘を全て断り、故郷の高良山(福岡県久留米市にある標高312・3メートルの山)の麓で医業を営んでいた。しかしながら、これだけにとどまらず、祖父種茂が親交をもっていた「農聖」の北村正典の農法を継ぐため、次男の種英を北村家に遣わせた。この影響もあり、高良山に60万株余りの杉の植林を行った。宕山の儒医としての働きはこれだけにとどまらず、高良山の帰雲翁に師事して南淵請安(生没年不詳)の『南淵書』を授けられている。南淵請安は飛鳥時代(593~710)の学問僧だが、小野妹子の遣隋使に従い、随から唐へと変遷する興亡を見聞した人だった。この南淵請安は640年、舒明天皇の時代に帰国し、「大化の改新」に大きな影響を与えた人物としても知られる。
高良山には天武2年(673)に創建された講堂があり、学問僧が集まる場所だった。

宕山は帰雲翁から典制(制度律令)も学んでいる。権藤成卿が解説書を著した『南淵書』は帰雲翁から宕山の手に伝わるものだった。宕山は、これだけではなく『分齊』『安民』『八綱』『五刑』など、礼と刑の制度の基礎を著し、「我が道は飲食、男女、衣服、住居にあり」と豪語した。権藤成卿の「制度学」も、この宕山の教えが基本となっていると考えられる。

尚、高良山の麓には現在の陸上自衛隊幹部候補生学校(福岡県久留米市)があり、学生の体力測定の記録会が行われる山でもある。記録会は学校から山頂までの往復時間を競い、幹部候補生学校の恒例行事となっている。この記録会での最短記録は1964年(昭和39)の東京オリンピックマラソン競技で銅メダルを獲得した円谷幸吉が記録し、いまだ更新されることなく現在に至っている。
 

・宕山の遺徳を継ぐ田中宜卿
「宕山隠士」と称して宕山は高良山南麓で帰雲翁から授けられた学問の研究に没頭していた。この間、宕山の長男である権藤種栄(医名は寿翰)が生計を維持していたようだ。種栄自身、経史(中国古典)に親しみつつも、病根を観て処方する医者として知られていた。更に、准提観音(子授かり、安産、夫婦和合)を信仰する人でもあった。

この宕山のもとに田中宜卿(たなかぎけい)が入塾してきた。この宜卿は浩蔵ともいい、医名を玄伯と名乗った。師である宕山没後も、二十数年にわたって塾で教えていた。この宜卿は竹内式部(正徳2~明和4、1712~1767)とも親交がある碩学でもあった。「明和事件」では宜卿にまで嫌疑が及んだようだ。しかし、宜卿は塾で門人を育成しながら、宕山から譲り受けた『南淵書』を宕山の孫である権藤寿達にも伝えていた。

この寿達への田中宜卿の教え(尊王論)があったからこそ、高山彦九郎(延享4年~寛政5年、1747~1793)が筑後の久留米を訪ねる機縁となった。「狂」の一言を遺して自決した彦九郎だが、亀井南冥(寛保3~文化11、1743~1814)の実弟である曇栄、亀井南冥の門人である廣瀬淡窓とも親交があった。南冥は福岡藩校甘棠館の祭主であり、儒医だが、門人には廣瀬淡窓の他、権藤延陵(権藤寿達の子息)がいる。亀井南冥といえば国宝金印の解説書を著した人でもある。田中宜卿が権藤宕山の塾に入門しなかったら、果たして権藤成卿にまで『南淵書』が伝わっただろうか。その田中宜卿は権藤一族の墓所に眠っているが、さほど、権藤家にとって重要な人物であったといっても過言では無い。

蛇足ながら、筆者は令和6年(2024)9月号の「維新と興亜」に「佐賀の風土と五・一五事件」として明国の儒学者朱舜水(しゅしゅんすい、1600~1682)について述べた。朱舜水といえば水戸光圀の「大日本史」編纂事業を補佐した人だ。朱舜水が後醍醐天皇(1288~1339)の忠臣楠正成(1294~1336)を「楠公賛」などの漢詩で絶賛し、これが楠公精神として幕末の勤皇の志士たちの精神的支柱となった。この朱舜水が明国から長崎に亡命し、その存在を師である安東省庵に伝えたのが権藤宕山だった。宕山が長崎で明国亡命人の鄭一元に医学を学ばなければ、果たして朱舜水を見出していたかは分からない。そう考えると、人と人との関係は実に不思議としか言えない。

㉚「虎吉という女の子」西日本新聞〔風車〕欄(2025年3月19日)

㉙「天才レーサーの姉」西日本新聞〔風車〕欄(2025年2月6日)

㉘「石破首相の施政方針演説から考える事」令和7年1月30日

令和7年(2025)1月25日(土)の新聞各紙は、前日の石破首相の施政方針演説全文を掲載していた。その内容を読みながら筆者は「地方創生 令和の日本列島改造の具体案」に注視した。「知識や能力だけでなく、歴史や文化、地域や周りの人を大切にし、行動する力を有した人材や、大学や農業・工業高校等における観光等の地域の魅力やニーズを捉えた産業やサービスを支える人材を育成します。」と出ていた。

この箇所を読み進んでいたとき、思い出したのは福岡県議会議員の原中まさし氏の県議会での質疑内容だった。原中県議は2022年(令和4)2月、「本県の歴史的認識と今後の県広報について」、2024年(令和6)10月、「本県の郷土史教育について」として県議会で質疑を行った。その内容は先述の石破首相の施政方針演説を先取りした内容だったのだ。
 
まず、2022年の県議会では「福岡県」という自治体創立に至る歴史が県民に認識されているかという質問だった。そもそも、明治維新とは、封建的身分制度の解体と再構築が目的だったが、その再構築に至る過程から学ぶ歴史があるのではないかという問いである。更に、福岡県及び福岡市は「アジアの玄関口」とも称されるが、朝鮮半島、中国大陸との関係性を具体的に県民に周知しているのかというもの。

大東亜戦争(太平洋戦争)以後、日本は太平洋の彼方にあるアメリカを意識し、近隣のアジアに対し関心が薄かったのではと筆者は考える。それだけに、原中県議の質疑は的を射ている。具体的には、中国革命の孫文と福岡県人との交流は広く、深いことを原中県議は延べ、その歴史を知らしめるべきではと議会に問いかけたのだ。実際に、大正2年(1913)3月、旧福岡県公会堂(福岡市中央区西中洲)で孫文は演説を行い、革命成就、中華民国建国は日本人、とりわけ九州人のおかげと感謝の意を評した。

原中県議の県議会での質疑の結果、旧福岡県公会堂のホームページに、この史実が掲載された。これは一つの成果として評価したい。願わくば、来福する観光客、特に中国人にに対し視覚に訴える案内看板(QRコード付)や案内の標柱があればと思う。更なる成果を期待したい。
そして、原中県議が2024年10月に県議会で質問された内容を検証すると、教育現場での歴史教育の不足を指摘している。このことにも大いに賛同する。いわゆる、郷土が生んだ偉人についての認知度が低すぎるのではとの指摘だ。

福岡県からはブリヂストンの創業者石橋正二郎、東芝の田中久重、出光興産の出光佐三、安川電機の安川敬一郎など、世界企業創設者を輩出した。しかしながら、福岡県での認知度、理解度はいかがなものか。更に、アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲医師などは、その業績を知ってはいても、まさか、同郷の方とは知らなかったとの声は幾度も耳にした。それだけに、郷土史を知ることは、社会の成り立ち、変遷をも知る良い学習効果を生み出す。福岡県にはその教材となりえる人々は語り尽くせないほどいるだけに、ただただ、「もったいない」と思う次第だ。

蛇足ながら、筆者は複数の奨学金団体の研修会で歴史について講演をしたことがある。某団体は九州大学の学生対象に奨学金の給付を行っているが、学生の出身地は日本全国である。研修会後、諸々の質問などを受けるが、このとき、各自治体が郷土の偉人について教えていることを知った。同時に、地域によって郷土史教育に温度差があることにも驚いたが、これは今後の人材教育の観点からも知識格差が生じないように福岡県は積極的に行うべき事と思った。
石破首相が施政方針演説で「知識や能力だけでなく、歴史や文化、地域や周りの人を大切にし、行動する力を有した人材や、大学や農業・工業高校等における観光等の地域の魅力やニーズを捉えた産業やサービスを支える人材を育成します。」と表明したが、受け皿となる地方自治体に人材育成意識が無ければ何ら効果を発揮しえない。
 地方創生として政府が旗振りをしても、自治体にその気がなければ地域は活性化しない。故に、具体的に自治体首長、幹部職員がどの程度の認識を有しているかが問題になる。地域経済は単に他所から企業誘致をするだけが手法では無い。自治体自身が持つ素材をいかに見出し、加工し、外部に発信するかにかかっている。人の往来によって経済効果は倍加するだけに、地域の魅力を発信する人材の育成は不可欠だ。そう考えると、郷土史教育は地方創生の原点であると考える。

これからの時代、自治体だけではなく、地域の個々人がいかに行動するかに掛かっている。それだけに、原中県議の議会における質疑内容は石破首相の施政方針演説の実施事項のヒントになりえる。詳しくは原中まさし県議会議員のホームページをご覧いただきたい。

㉗「孫文と浪曲師」西日本新聞〔風車〕欄(2025年1月22日)

㉖「所変われば品変わる」西日本新聞〔風車〕欄(2024年12月16日)

㉕『人参畑』会報2024年11月浦辺登寄稿「廣田弘毅夫人・静子について」

㉔「武士の名誉とは」西日本新聞〔風車〕欄(2024年11月21日)

㉓「時を超えた結びつき」西日本新聞〔風車〕欄(2024年10月24日)

㉒「水洗トイレ」西日本新聞〔風車〕欄(2024年9月19日)

㉑「佐賀の風土と五・一五事件」 維新と興亜2024年9月号 掲載

五・一五事件の思想の背景をたどる

前号(令和6年3月号)において、五・一五事件での海軍青年将校らが集った香椎温泉旅館跡に立つ「曙のつどい」碑を紹介した。その碑の裏面には、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件が一連の行動であると刻まれている。現今、これらの事件は個別に扱われ、とりわけ、二・二六事件は陸軍の皇道派と統制派の対立として教える。

そもそも、なぜ、五・一五事件(昭和7年、1932)の海軍青年将校らは蹶起したのだろうか。大正10年(1921)のワシントン軍縮会議での統帥権干渉問題。農民の困窮を顧みない癒着した政財界の糾弾。アジアの植民地解放という動機が考えられる。しかし、その動機、思想の背景に人的関係、風土の気質が関係していたのではないか。そう考えるのも、海軍青年将校たちの出身地が佐賀県に集中しているからだ。佐賀県の思想といえば山本常朝の『葉隠』、水戸学の系譜に連なる枝吉神陽(1822~1862)の「義祭同盟」が有名だ。今も、佐賀市の龍造寺八幡宮に隣接して楠正成父子を祭神とする楠神社があり、拝殿脇には義祭同盟碑もある。海軍青年将校らの思想に何か風土的な影響があるのでは・・・と思い、佐賀県を訪ねた。

 

佐賀市を訪ねる

令和6年(2024)1月、佐賀県佐賀市に向かった。通常、佐賀市に行くには福岡市中心部からは博多駅を経由する。しかし、筆者が居住する福岡市西部からは唐津駅(佐賀県唐津市)経由でも行くことが可能。そこで今回、唐津駅を経由し、JR唐津線で佐賀駅に至るコースを選択した。このコース上には、海軍青年将校の村山格之、黒岩勇の故郷である佐賀県多久市、小城市を通過する。地の気というか風土を見てみたいということもある。

唐津駅からは昔懐かしい2両編成のディーゼルカーに揺られる。この沿線には昔、三菱鉱業相知(おおち)炭鉱があり、石炭を満載した列車が往来した場所であり、唐津市はその昔、石炭の積み出し港として栄えた町だった。車窓からの田園風景を楽しむ。

唐津線の多久駅、小城駅を経ておよそ1時間、高架線となった佐賀駅に到着。ここから佐賀鍋島家の居城であった佐賀城跡にある佐賀県立図書館まで歩いてみる。一直線の大通り左右には平成30年(2018)に開催された「佐賀維新博覧会」で主役を務めた鍋島直正、大隈重信、江藤新平らの銅像が林立している。それらを一つ一つ写真撮影しながら図書館に至る道を歩く。途中、旧長崎街道に面しての龍造寺八幡宮、楠神社にも立ち寄り参拝。あの「義祭同盟碑」も確認する。

五・一五事件は海軍青年将校が主導し、陸軍青年将校、民間人が関係した事件だ。この海軍青年将校の中心人物は藤井斉(1904~1932)だが、藤井は第一次上海事変で戦死し、直接に事件には関係していない。しかし、この藤井の意思を継ぎ、三上卓、黒岩勇、村山格之、古賀清志らが蹶起し、犬養毅首相や警視庁などを襲撃した。この藤井、三上、黒岩、村山、古賀(長崎県佐世保生まれの佐賀育ち)らは佐賀県出身であり、ここに、何か郷土特有の思想、風土があるのではないかと考えた。佐賀県立図書館の郷土資料コーナーで、海軍青年将校らの出身地である佐賀県多久市、小城市に関連する資料を探ってみる。

 

藤井斉に関する資料

まず、藤井斉の資料を探してみる。佐賀県立図書館架蔵の小城郷土史研究会会報誌で藤井斉についての記録を目にした。その中に、意外にも血盟団事件での領袖である井上日召(1886~1967)についても含まれていた。井上は満洲の公主嶺(吉林省)にあった仏心寺で参禅したが、仏心寺は佐賀県小城市芦刈町の福田寺(曹洞宗)が本寺と記されている。福田寺の二十世住職は東大心(あづまだいしん)であり、二十一世として福田寺を継承する予定であった東祖心(あづまそしん)が檀家の娘と恋に落ち、満洲に逃避して開いたのが仏心寺である。そして、満洲に道を求めて流れきた井上日召が訪れ参禅したのが仏心寺である。日召が満洲の地で座禅を組んでいた背景には、禅寺(福田寺)が根本にあったことに少なからず驚いた。

従前、日召が茨城県大洗町の護国堂(日蓮宗)にいて、そこに海軍霞ヶ浦航空隊(茨城県土浦市)に所属する藤井斉らが集ったと思っていた。しかし、藤井は旧制佐賀中学(佐賀県立佐賀西高校)に通学する途次、福田寺の近くを通学路にしていた。末寺の満洲・仏心寺にやってきた日召との関係性は見えない糸で早くにつながっていたのだった。実際に、藤井が日召に合ったのは野口静雄(佐賀県出身)の伝手だった。野口は拓殖大学から安岡正篤の金鶏学院に学び、茨城県職員となっていた。この金鶏学院に野口がいたことから藤井は権藤成卿ともつながった。

藤井斉は旧制佐賀中学を経て海軍兵学校に入校。将来を嘱望される海軍士官となったが、政治改革についての考え、意見を有していた。この思想の背景には満洲・仏心寺の本寺である福田寺が影響していると見るべきではないか。清水芳太郎が編集した『五・一五事件』によれば、維新遂行のため藤井が古賀清志、村山格之、三上卓、伊東亀城、大庭春雄に団結を呼びかけた。その後、伊東が山岸宏に、古賀清志が中村義雄に、三上卓が林正義、黒岩勇を勧誘。林が塚野道雄を引き込んだ。同郷の海軍青年将校らが集結し、志を同じくする仲間が行動するのも時間の問題でしかなかったということになる。

蛇足ながら、1963年のインドネシアで開催されたガネフォ(令和6年1月号参照)に紀地三明の変名で日本側関係者として加わっていた黒岩勇の妻は福田寺の檀家の娘という。

 

 

九州は「水戸学」の故地なのか

五・一五事件に関係した海軍青年将校の故郷を訪ねることで、「何か」を得ることができるのではないかと思っていたが、意外な事に気づいた。それは「水戸学」の故地は九州ではないのかということ。

そもそも、「水戸学」は水戸光圀の「大日本史」編纂事業が基礎となり、明国の儒学者である朱舜水(しゅしゅんすい、1600~1682)が日本に亡命したことが起爆剤となる。この舜水だが、明国が清国(満洲族政権)に侵略されたことで万治3年(1660)に長崎にやってきた。当初、その舜水の生活を支えたのは筑後柳川藩(福岡県)の儒学者安東省庵(あんどうせいあん、1622~1701)であり、朱舜水の長崎滞在の申請書を長崎奉行に提出し、佐賀小城藩主の鍋島直能が同意をしたことで安堵を得たのだった。朱舜水のおよそ6年にわたる長崎滞在生活は安東省庵、鍋島直能の支援によるものだった。安東省庵は自身の禄の半分を師である舜水に捧げた。

やがて、水戸光圀(1628~1701)とは書簡を交わすほど親しい関係にあった小城藩主の鍋島直能の推挙もあって舜水は水戸光圀の招聘に応じた。朱舜水といえば、後醍醐天皇(1288~1339)の忠臣楠正成(1294~1336)を見出し、「楠公賛」などの漢詩を著した。これが楠公精神として幕末の勤皇の志士たちの精神的支柱となるが、安東省庵は長崎在住中の朱舜水に楠正成について詳細な紹介文を送り、舜水の意見を求めていた。一般に「水戸学」といわれるが、その故地は九州にあったのではないか。

ちなみに、安東省庵が朱舜水を知るきっかけとなったのは、弟子の権藤宕山(ごんどうとうざん)がもたらした。宕山とは、あの権藤成卿の五世前の先祖になる。この縁も不思議といえば、不思議だ。

楠神社(佐賀市)

⑳「日本の危機救う浮橋」西日本新聞〔風車〕欄(2024年8月12日)

寄稿文掲載:「和平交渉」西日本新聞〔風車〕欄(2024年7月22日)

寄稿文掲載:「ストライキ」西日本新聞〔風車〕欄(2024年6月6日)

寄稿文掲載:「灯台下暗し」西日本新聞〔風車〕欄(2024年4月24日)

寄稿文掲載:「相生由太郎」『人参畑会報誌』(2024年3月29日)高場乱の法要にて配布

寄稿文掲載:「疱瘡」西日本新聞〔風車〕欄(2024年3月27日)

寄稿文掲載:「五・一五事件と新興国スポーツ大会」『維新と興亜3月号』

映画評「帰ってきたヒトラー」デヴィッド・ヴェンド監督、ティムール・ヴェルメッシュ原作

・歴史は繰り返す

1945年(昭和20)4月30日、アドルフ・ヒトラー(1889~1945)の自殺によって欧州における第二次世界大戦は終結した。連合国軍はナチス・ドイツ、狂人ヒトラーをニュールンベルグ裁判によって徹底的に弾圧した。極めつけは収容所でのユダヤ人虐殺だが、これは世界を震撼させ、ヒトラーは絶対悪となった。

その絶対悪のヒトラーが現代にタイムスリップして蘇ってきたら、どうなるか。本作品は、2012年に発表された『帰ってきたヒトラー』(ティムール・ヴェルメッシュ著)を映画化したもの。パロディ作品とみるか、社会風刺と見るかは、視聴者の判断。

視聴後に感じたのは「歴史は繰り返す」という言葉だった。第二次世界大戦終結後、ドイツは東西に分断された。しかしながら、即座に西ドイツは軍を復活した。けれども自国の防衛に限ったものであり、他国への干渉は厳しく制限された。

2022年2月、ロシアはウクライナに軍事侵攻した。ロシアのプーチン大統領をヒトラーになぞらえ、プーチンを批判し、EUはウクライナ支援へと世界を誘った。しかし、今回のロシアのウクライナ軍事侵攻においてドイツは動けない。せいぜい、戦車などを提供するにとどまっている。そういった欧州環境の中、本作品を視聴する。10年以上前の作品でありながら、すでにドイツ国内においてEUが主導した移民への不満、政治不信、経済への不満が水面下で濁流となっていることを知る。この社会状況は、かつてのナチス・ドイツが出現する社会に酷似している。

タイムスリップしたヒトラーの言動に、現代ドイツの国民が不満を表明する。移民による平均知能指数の低下、治安、秩序、社会不安など、男女ともにあからさまに不満を爆発させる。これらを見ながら、笑えない。なぜならば、この映像に登場し、不満を述べる人々と同様の人が日本にもいるからだ。かつての日本は、ナチス・ドイツと同じく戦争裁判で裁かれ弾圧を受けた。東條英機は今もってヒトラーと並び称される絶対悪だ。

1945年(昭和20)、ドイツ、日本の敗北後、連合国軍によって両国の歴史は「勝者の歴史」に塗り替えられた。連合国軍にとって都合の悪い事実は闇に葬り、「絶対悪」のレッテルがはがれないように誘導する。ナチス・ドイツの象徴であるハーケンクロイツは「無かった」ことにされた。日本の国旗、旭日旗も然り。その結果、表には出ない不満が沈殿している。

平凡な議論は偏りがない。世間一般は、安心感を求めて平凡を好む。そして、本音は言わない。この心の隙間を突いたのがナチス・ドイツだった。扇動によって集団を操作した。そう考えると、本作品は日常の常識を疑えと主張してはいまいか。人間の本質は変わらない。「歴史は繰り返す」。いくら、くさい物に蓋をしても、再びヒトラーは蘇る。人間心理の本質をついている本作品は、「笑うな危険」というが、笑えなかった。

⑫「新興国スポーツ大会と日本」維新と興亜1月号より

⑪「入来文書(いりきもんじょ)に関する講演会を聴いて」

令和5年(2023)11月19日(日)、午後2時から鹿児島県薩摩川内市で開かれた「入来で語る数奇な入来文書の運命」の講演会に参加した。講師は横浜市立大学名誉教授の矢吹晋氏。

まず、聞きなれない入来文書だが、これは平安時代後期から鎌倉時代にかけ、公家から武家に全国各地の荘園の支配権が移っていく様、いわゆる封建制の成立過程を知ることができる文書である。それも入来という狭い限られた空間での文書だけに、その過程が克明に理解できる文書。この文書をアメリカ・イェール大学の研究者であった朝河寛一(1873~1948)が読み解いた。それが翻訳され欧米で発表され評価を受けた。

しかし、日本では朝河寛一の名前も業績も広くは知られていない。その背景には、二つの要因がある。一つは、「勝者の歴史」としての薩摩島津家との関係性。もともと、島津家は京都の近衛家の配下にあった。その近衛家の各所の荘園を管理していた武家が島津家。反して、入来院家こと渋谷家が地頭職として鎌倉から派遣され薩摩を管理していた。ここで京都の朝廷、鎌倉幕府との二重支配下での薩摩だったが、やがて軍事力の差から島津家が支配者として君臨する。君臨するからには、政権の正統性を必要とする歴史書、系譜が作られる。その捏造の歴史書、系譜の矛盾を入来文書から指摘したのが朝河寛一だった。朝河が明治維新での敗者である二本松藩士族の末裔であったことも関係しているかもしれない。

次に、朝河の論文は欧米で発表されたにも関わらず、1945年(昭和20)の大東亜戦争敗戦後も日本では受け入れられなかった。封建制度下において農民は奴隷に等しく、農奴の解放が左派系の思想だった。しかし、入来文書には農民が奴隷に等しいとの記述はない。左派系にとっては、都合の悪い入来文書だった。大東亜戦争後の日本の大学は左派系の学者の巣窟だった。当然、入来文書の存在は共産革命の理論からは迷惑な文書だった。

矢吹晋氏の話は、入来文書の解説が中心。しかし、筆者はあえて研究者である朝河寛一にまつわる質問を行った。満洲ハルビンに向かった伊藤博文(1841~1909)が朝河の著書である『日本の禍機』を持参していたのか?朝河は日米戦争回避のために、金子堅太郎(1853~1942)にレターを送ったのか否かの2点。

伊藤と朝河が親しい関係にあり、朝河の『日本の禍機』を持参した公算は高いと考えられるが、確証は得られていないと矢吹氏。レターも、複数の日米戦争回避支持者の日本人に送られており、金子も当然、その内の一人だとのこと。

また、日露戦争ポーツマス講和条約では小村寿太郎に注目が集まるが、その周辺の人物を当たらなければ、真実は不明という。その当該人物が阪井徳太郎(1868~1954、三井合名理事、外務大臣秘書官)という人。これは、懇親会で矢吹氏が語ってくれた。

歴史の矛盾を突き詰める術として朝河寛一が著した『入来文書』は、貴重であると同時に、現代に幾重にも疑問を投げかけている。広く知らしめるべきと考える。

⑩「五條家御旗祭りに参加 明治維新は南朝の王政復古か」『維新と興亜』11月号掲載

⑨「玄洋社社長・平岡浩太郎の悼辞を読んだ大隈重信」『維新と興亜』9月号掲載

⑧「老農 塚田喜太郎のこと 」2023年6月20日

現代日本において、塚田喜太郎(文政3~明治23、1820~1890)の名を知る人はごく僅か。一介の農夫が歴史に名を刻むなど稀なことだが、名を遺した。喜太郎は現在の鹿児島市武町、中山町における新田開発、大隅半島肝付での開墾に成功。沼や池を埋め、灌漑、土壌改良を成し遂げた。その手腕を乞われ、明治13年(1880)、現在の福島県郡山市の安積開拓地に招かれた。招聘したのは奈良原繁。奈良原といえば、文久2年(1862)の寺田屋事件で、君命を受け、有馬新七らの決起を抑えた人として知られる。

齢60を過ぎた喜太郎が招かれた安積開拓地には、九州久留米の士族たちが入植していた。いわゆる、士族授産として刀を鍬に握り替えての武士の農法だった。喜太郎を招いた奈良原には一つの禍根があった。久留米の入植者たちは、寺田屋事件に関わった真木和泉守を領袖とする久留米勤皇党の残滓でもあったからだ。奈良原の上司ともいうべき人は大久保利通。大久保も文久2年に真木と福岡筑後の羽犬塚で日本の行く末を討議した仲だった。さらに、真木の主君であった久留米藩主・有馬頼永の正室は島津斉宣の娘・晴姫だった。薩摩と久留米の、切るに切れない複雑な事情があったのだ。

しかし、喜太郎にとって、そんな武士の義理など関係ない。薩摩で蓄えた自身の農業技術を新天地で試したい。面白い!そんな躍動感に駆られたに違いない。お天道様の下、広大な大地が相手の農業においては、武士の論理、自尊心など何の役にも立たない。天地の間に生きる人はすべからく同じ。そして、「生きることは食べること。食べることは生きること」。百の言葉より実際の行動をもって、喜太郎の思いは見事、新天地の安積開拓地で結実した。けれども、明治23年(1890)2月21日、故郷鹿児島の方に向けてくれとの言葉を遺し喜太郎は病没。見事、福島県郡山に骨を埋めたのだった。

同じ日本でも東北地方は貧しかった。冷害、日照り、大地震、大津波で東北の民はバタバタ倒れていく。この時、近代農法を確立しなければ永久に東北の民は救われないとして岩手県盛岡に赴いた薩摩の男がいた。玉利喜造(安政3~昭和6、1856~1931)だ。明治8年(1875)、風雲急を告げる鹿児島において、西郷隆盛に世界情勢を説いた。「おはんは、学問でこん国を立て直しもんせ」との西郷の声に押し出され、玉利喜造は上京、アメリカ留学も果たした。農科大学教授(現在の東京大学農学部)の職を辞し、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)の初代校長に着任。東北に近代農業の礎を築いた。その卒業生には「雨ニモ負ケズ」の詩人、花巻農学校教師であった宮沢賢治がいる。

西郷は農本主義者と称えられる。農本主義とは「農は国の本なり」という思想だ。まず、民の安寧の初めは食べること。人の生命を支える農業は国の根幹を支えることに繋がる。西郷、大久保、奈良原らは、世の安寧のため農業で人の生命を救いたかった。その最前線で黙々と老農・塚田喜太郎は農業技術を伝授し、日本の民を支えた。故に、この老農・塚田喜太郎の功績を称えることは、西郷、大久保、奈良原らの願いを伝えることにも繋がるのだ。




⑦「幕末史における水戸学、国学の隆盛から」2023年6月4日

幕末史において、水戸学が全国の志士に広まった。これは、水戸藩の水戸光圀(1628~1701)が中国の司馬遷(紀元前145年頃生、前漢時代の歴史家)の『史記』に倣って『大日本史』の編纂事業を始めたことに起源がある。日本各地に残る歴史書を取り寄せ、日本の歴史を編纂したもの。この編纂事業の最中、大陸では清(満洲族)が明(漢民族)を倒したことから朱舜水(1600~82)という明の儒学者が日本(長崎)に亡命。水戸光圀はこの朱舜水を招聘し、編纂事業にあたらせた。これが学問としての「水戸学」(天保学とも)の源流となり、『大日本史』は「倫理道徳の書」と見られる。「歴史の事実をありのままに述べれば勧善懲悪の意義は自ずから現れ。政治が興隆しているか否かは歴史を直視すれば火を見るより明らかだ」とする。

この時、朱舜水が絶賛したのが南朝(後醍醐天皇を祖)の忠臣・楠木正成(1294~1336)だった。この楠木正成を絶賛する漢詩が広まり、志士たちのナショナリズムが高まる。そこに膨大な量の『大日本史』を読み込んだ頼山陽(漢詩人、1781~1832)が『日本外史』としてダイジェスト版を編纂し、ベストセラーになった。ここから、幕府の封建的身分制度を倒し、天皇親政、一君万民の国に変革しなければとの考えが強まる。特に、嘉永6年(1853)のペリー来航は刺激となった。

幕末、貨幣経済が浸透していった社会において、商人階級は潤沢な資金力を保持していた。貧困に喘ぐ武士階級の株(石高という配当)を買い、武士となった。代表的な人に勝海舟(1823~99)、榎本武揚(1836~1908)などがいる。

 儒学、水戸学とも相まって、日本の万葉集などを極めることで日本人としての感性から日本の在り方を説く人が増えた。一般に国学といわれるものだが、代表的な志士に平野國臣(1828~64)がいる。幕末の世相から国学の影響を知るには島崎藤村(1872~1943)の『夜明け前』が参考になる。

蛇足ながら、仏教は封建的身分制度の江戸時代、「五人組」と呼ばれるように体制側に組み込まれていた。「若党」と呼ばれる武士階級で継ぐ家を持たない者を収容する機関でもあった。この影響もあり、思想というよりも制度の上から明治期の廃仏毀釈運動の標的になった。

明治期、敗者となった旧幕府側に新しい反体制意識としてキリスト教が勃興した。さらに、大正、昭和になると貧窮問題の解決として社会主義の考えが広まった。

そして、昭和20年(1945)8月以降、「民主主義」という新しい西洋の手法が導入され、日本の古くからの慣習と摩擦を起こしながら現代に至っている。

⑥「幕末史の思想の変遷について 1」

孔子(紀元前552頃の生まれ)は儒家(儒学)の代表として語られる。この儒家のほか、法家、道家など、様々な思想形態が中国にはあった。「百家争鳴」とは、様々な思想家が自身の考えを戦わせたことから誕生した言葉。

しかし、中国の皇帝は儒家のみを国の教えとし、他の思想家は抹殺してしまった。「歴史は勝者によって作られる。思想は為政者によって焚書される」の言葉通り。後に、この儒家の思想も朱子(1130年頃の生まれ、朱熹とも)による朱子学(宋学とも)という一派が形成される。この朱子学の基本は「親と子」「君と臣」の関係など、秩序の在り方を重要視し、忠節を重んじる。これは、支配者と被支配者の関係からいえば、支配者にとって都合の良い考えだった。ここで、徳川幕府は封建的身分制度(門閥制度)の維持のために朱子学を尊重した。

翻って、幕末に下級武士に尊重されたのが陽明学だった。これは王陽明(1472年頃の生まれ)が説いた考えだが、代表的な言葉として「知行合一」がある。知識や物事の理屈を理解した以上、行動に移さなければならないとする。このことは、江戸時代末期、弛緩した封建的身分制度を変革させる思想でもあった。故に、陽明学は「革命の思想」とも呼ばれた。

・朱子学=保守=仁(愛)と対立
・陽明学=革新=仁(愛)を尊重

江戸時代末期、高杉晋作が上海に行って漢文の聖書を読んだ際、「これは、陽明学ではないか!」と言ったのは有名な話。聖書の「愛」と陽明学の「仁」が同じだったからだ。

ちなみに、中国古典において、民衆のことを「牧民」と表現する。家畜と同じ民衆を統治する愚民政治は聖人のやり方であると教えていたからだ。このことは「知は両刃の剣」と呼ばれていたことにつながる。民衆の各人が賢くなりすぎると、国が治まらなくなるからだ。

中国には「墨子」という考えもあるが、これは「兼愛思想」と言われ、キリスト登場以前にあった考え。ロシアのトルストイは「キリストの出現によって墨子の考えを広めることができた」とまで言い切った。

更に「韓非子」という思想もあり、これは儒学の性善説に対し性悪説を基本にしている。ゆえに、法の規制によって民衆を統治しなければならないともいう。加えて、経世済民という観点から、計画経済、実学に近い考えをも示す。大久保利通は中央集権、富国強兵の策として「韓非子」をテキストにしたともいわれる。

⑤「なぜ、大久保利通は評価しづらいのか」 浦辺登

 大久保利通は西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」と呼ばれる。しかし、いまだ、その評価は西郷隆盛に比べて低い。特に、同じ薩摩(鹿児島県)出身であり、若き日は同志として活動していたものの、明治10年(1877)の西南戦争では勝者と敗者の関係になった。日本人の判官びいき、心情も作用し、評価の軍配は西郷隆盛に大きく傾いている。

 では、なぜ、大久保は評価の対象になりづらいのか。それは、日本の封建社会における学問体系が儒学中心であったことに起因する。日本では孔子、孟子に代表される儒学が思想の中心にあった。しかし、中国での思想は儒学(儒家)だけではない。

 

・儒家(性善説) 孔子、孟子、荀子

・墨家 墨子

・名家 公孫龍

・道家 老耼、荘周

・法家(性悪説)管仲、韓非

・陰陽家 鄒行

 

 中国では、家=派として、それぞれが独特の理論を戦わせており、その中でも、性善説を説く儒家の教えは、為政者に支持された。しかし、この儒家に反して性悪説を説く法家は、為政者に厳しい自律を求める。同時に、庶民には富国強兵、中央集権国家としての法治を強いるために嫌われた。自然、為政者や庶民は儒家の孔子、孟子の教えを好む。

 先述の大久保は、儒家ではなく法家の『韓非子』を愛読の書とした。儒家の教えは平時には良いが、有事には機能しない。明治時代は欧米列強に囲まれた「有事」だった。故に、大久保は有事に有効な法家の『韓非子』をテキストにしたのだった。

 『韓非子』は儒者からは今も「悪徳の書」と呼ばれる。それは、性善説の儒者からすればライバル関係にあることから当然のこと。しかし、明治時代は有事。性悪説の法家(富国強兵、中央集権、法治)で対処しなければ諸外国に対抗する事はむつかしい。

 大久保利通を評価するには、科学思想を加味した法家の考えを理解しなければならない。為政者にとって、耳が痛い話が並んでいる。それだけに、為政者は忌避したい。しかし、まず、『韓非子』を一読してでなければ、大久保の評価は進まない。惜しむらくは、西郷と共に、短命であったことも大久保の評価に結びつかない原因にある。

令和4年(2022)7月21日

福島県郡山市には大久保を祀る「大久保神社」がある

④「福岡県議会傍聴記」 浦辺 登

 令和4年(2022)3月3日(木)の午後、福岡県議会を一般傍聴。月例で開催している「人参畑塾」(地域の歴史文化の勉強会)のメンバー5名で参加した。今回、原中まさし県議会議員が「本県の歴史的認識と今後の広報について」として一般質問をされるので、これを聞き逃すわけにはいかない。とはいえ、新型コロナウイルスの蔓延防止期間中だけに、傍聴席は厳しく人数制限をされていた。しかし、傍聴券を入手できたのは幸いだった。

 原中まさし県会議員の質問趣旨は、

  • 2026年の福岡県発足150周年事業について
  • 公立学校での近現代史教育の取り組みについて
  • 旧福岡県公会堂の活用、特に中国革命の孫文が演説をしたことにからんで
  • 福岡県が管理する西公園(福岡市中央区)などの歴史資源としての活用について

 

 まず、原中県議によって廃藩置県後の福岡県の近代史を具体的に説明。さらに、中国革命の孫文(国父、革命の父)が、日本人、特に九州人と非常に近い関係にある。玄洋社の頭山満、平岡浩太郎らが孫文を強く支援していた。福岡県の財界人も支援していたと説明。議場の議員の方々も、興味深く原中県議の質問に興味深く耳を傾けていたのは傍聴する側としても壮観だった。

 この質疑に対し、服部県知事、吉田教育長から回答があった。
 なかでも、西公園の整備について、服部知事から加藤司書(福岡藩家老、筑前勤皇党領袖)、平野國臣に関係する公園だけに、その整備に対して前向きな回答があった。蛇足ながら、中国革命の孫文は、西公園にも立ち寄っており、このことも回答して欲しかったなあと思った・・・が、これは少々、マニアックか・・・。

 とはいえ、県議会の傍聴などということは初めてのことだっただけに、実に興味深い体験だった。傍聴に際し、写真撮影、携帯電話の電源を切るのは当然だが、コート、帽子の着用不可。(多分、銃刀類を隠し持っていないかの証明のためか?)拍手や発声、パフォーマンスは禁止行為。

 県知事の記者会見の際などは手話通訳者がいるが、県議会の議場においても必要に応じて手話通訳者は配置されるのか? 車椅子用の傍聴場所は用意されているが、弱視の方の為に、スクリーンがあっても良いのでは?などと傍聴しながら思った。

 今回、初の県議会傍聴だったが、選挙の時だけではなく、県民も議会を傍聴するのは良い事ではと考えた。


令和4年(2022)3月6日
(「浦辺登公式サイト」から転載)

③「『名詞』も日本語です」 浦辺 登

 日常的に使用している「ひらがな」の源流は漢字。「あ」は安、「い」は以、「う」は宇、「え」は衣、「お」は於。これは、漢字の書体の一つである楷書から、行書、草書となって生まれた。

 楷  書:角張った印象があるが、正しく書いた漢字

 行  書:楷書の文字を少し崩した漢字

 草  書:行書の文字をさらに崩した漢字

 ひらがな:草書の崩しようがない最終形

 ゆえに、漢字の最下流が「ひらがな」になる。
 今、中国(中華人民共和国)では、日本の「ひらがな」の「の」を商品名に加えることが流行している。「〇〇の〇」などだが、〇の箇所に中国の簡体文字が入る。ちなみに「の」の楷書は乃になる。要は簡体文字も源流は漢字だけに、商品名に漢字の変化形である日本の「ひらがな」が入ることにデザインとしての文字の面白さを感じる。ところが、中国のナショナリズムが反発を示すという。

 この話題を読みながら思い出したのは、清朝(満洲族政権の中国)末期の話。明治28年(1895)の日清戦争講和後、日本に留学する清国人が多かった。小国日本が大国清を撃ち破った要因は、日本が洋学(欧米の学問)を取り入れたからと分析。その秘密を探るべく、清国は大量の留学生を日本に送り込んだ。

 そして、帰国した清国人留学生は清国政府の新進気鋭の官僚となる。官僚組織では、日本語の単語が役所で飛び交う。日本の知識に感化され、母国を見失うのではと心配する官僚トップが留学組に命令する。
「日本語の名詞を多用するのは、まかりならん」
 すかざず、留学組が反論する。「今、口にされた『名詞』という単語も日本語ですけど・・・」

 反発を示す中国人には「歴史に学べ」と伝えたい。知らないうちに中国社会に浸透し使用されている日本語は多い。「ひらがな」の「の」の一文字で日本への対抗心を露にするよりも、簡体文字の誕生秘話でも探ってみたらどうだろうか。

 尚、『名詞』という日本語の文法用語だが、江戸時代のオランダ通詞である志筑忠雄がオランダ語から翻訳したものである。

令和4年(2022)1月26日
(「浦辺登公式サイト」から転載)

②「歴史認識の相違はどこから」 浦辺 登

 日本の歴史教科書において明治27年(1894)の日清戦争、明治37年(1904)の日露戦争は「侵略」戦争であると教える。この根源は昭和47年(1972)9月の日本と中華人民共和国(中国)との国交樹立の時に始まる。当時の中国の周恩来首相が「半世紀にわたる日本軍国主義者の中国侵略の始まり」として日清戦争(甲午中日戦争)を取り上げたからだ。周恩来首相からすれば、「半世紀」、五十年という「侵略」の長期間を強調したいとの外交的意図(外交交渉で優位に立ちたい)が見える。

 しかし、近代中国(中華民国)を建国した国父の孫文は、この日清戦争について日本批判を行っていない。むしろ、日本が「革命戦争」を我々の代わりに戦ってくれたと述べる。そもそも、この中国との戦争でありながら「日清戦争」と呼称する由来は、清国(満洲族政権)との戦争だからだ。1644年から1911年までの260年余、漢民族は満洲族の植民地支配下にあった。ゆえに、漢民族の孫文とすれば。日清戦争は日本が漢民族の革命戦争(政権樹立)を代わりにやってくれたと見ているのだ。

 さらに、日本とすれば、清国と結んだ不平等条約改正の戦(いくさ)が日清戦争でもあった。日本史年表には記載されないが、明治17年(1884)、明治19年(1886)の二度に渡り、長崎で清国水兵と日本の警察とがもめた。特に、明治19年の衝突では、多くのけが人、死傷者を出す市街戦を展開している。とはいえ、治外法権下の日本は清国水兵を逮捕、投獄することはできない。当時、この不平等条約改正問題は清国に限ったことではなかったが、大国として武力を誇示する清国は日本にとって脅威だった。

 周恩来首相の外交交渉での演説であったかもしれないが、史実の確認もせずに「侵略」戦争として受け入れる。なんと、情けない日本だろうか。国父の孫文と周恩来首相の主張の相違は歴史認識の相違につながる。早急にこの歴史の不平等を解消すべきと考える。

令和4年(2022)1月25日
(「浦辺登公式サイト」から転載)

①「日本の旧植民地台湾と朝鮮の意識の相違」 浦辺 登

 大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)後、かつて日本の植民地であった台湾は中華民国が統治し、朝鮮は北朝鮮と韓国とで分割統治することとなった。その旧植民地である台湾と韓国との日本に対する接し方が異なると言われる。簡単に言えば、「親日の台湾」「反日の韓国」である。この相違の原因はどこにあるのか。

 

 一、島の台湾と半島の韓国

 二、民政の台湾と軍政の韓国

 三、交際の短い台湾と交際の永い韓国

 

 台湾は、清国(満洲族政権の中国)から「化外(けがい)の地」と呼ばれていた。化外とは、清国皇帝の徳が及ばない未開の地という意味。反して、朝鮮は清国の属国であり、支配下にあった。良く言えば、清国皇帝の影響力が及ぶ地域。

 台湾が日本領に組み込まれた後、児玉源太郎が総督になった。しかし、実際の治政は後藤新平という医者が民政長官として行った。アヘン撲滅、衛生環境整備、インフラ整備に注力した。アフガニスタンで銃弾に倒れた中村哲医師が現地で尊敬の対象であったように、衛生環境の整備は地元民に喜ばれる。しかし、併合後の朝鮮では、同じ軍人が総督でも、施政官は陸軍の憲兵司令官。徹底した言論弾圧、統制だった。国境を接するロシア、清国の扇動者を排除する目的があったからだが、統治下の民は息苦しく、反発を覚える。

 歴史的に台湾と日本とは、間接的な交易関係。反して、朝鮮とは直接的な関係が永かった。ゆえに、相互に、先入観、固定観念が邪魔をする。百済(くだら)からの亡命者の受け入れ、元寇、秀吉の朝鮮征伐などもあった。ここに、人間(動物)としての感情の行き違いが生じる。

 これらを踏まえ、日本と台湾、日本と韓国との関係を見ていくと、「同じ植民地」として論ずることがいかに不毛であることか。親日の台湾、反日の韓国という図式が永遠に続くとも思われない。台湾と韓国との外交をいかに考えるかが重要になってくる。

 更に、なぜ、陸軍軍人の明石元二郎が台湾総督として敬慕されるように至ったのか。これはもう、「歴史に学ぶ」しかない。

 

令和4年(2022)1月24日
(「浦辺登公式サイト」から転載)

ある日突然、見慣れた景色の中から、懐かしい物が消えてしまった。そんな経験をされた方は多いと思います。世の事情と言ってしまえばそれまでですが、せめて、どうにかならなかったのか、何か遺せる手段はあったのでは・・・という後悔の念だけは残ります。 個人の力では限界がある。故に、「もっと自分の町を知ろう」という共同体を創設し、有形無形の財産を次世代につなげる。これが、一般社団法人「もっと自分の町を知ろう」という団体を設立する目的です。

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