一般社団法人 もっと自分の町を知ろう

浦辺登投稿

目 次(浦辺登投稿)

㉕『人参畑』会報2024年11月浦辺登寄稿「廣田弘毅夫人・静子について」
武士の名誉とは」西日本新聞〔風車〕欄(2024年11月21日)
㉓「時を超えた結びつき」西日本新聞〔風車〕欄(2024年10月24日)
㉒「水洗トイレ」西日本新聞〔風車〕欄(2024年9月19日)
㉑「佐賀の風土と五・一五事件」維新と興亜2024年9月号
⑳「日本の危機救う浮橋」西日本新聞〔風車〕欄(2024年8月12日)
⑲「和平交渉」西日本新聞〔風車〕欄(2024年7月22日)
⑱「ストライキ」西日本新聞〔風車〕欄(2024年6月6日)
⑰「灯台下暗し」西日本新聞〔風車〕欄(2024年4月24日)
⑯「相生由太郎」『人参畑会報誌』(2024年3月29日)への寄稿文
⑮「疱瘡」西日本新聞〔風車〕欄(2024年3月27日)への寄稿文
⑭「五・一五事件と新興国スポーツ大会」『維新と興亜3月号』への寄稿文
⑬映画評「帰ってきたヒトラー」デヴィッド・ヴェンド監督、ティムール・ヴェルメッシュ原作
⑫「新興国スポーツ大会と日本」維新と興亜1月号より
⑪「入来文書(いりきもんじょ)に関する講演会を聴いて」
⑩「五條家御旗祭りに参加 明治維新は南朝の王政復古か」『維新と興亜』11月号掲載
⑨「玄洋社社長・平岡浩太郎の悼辞を読んだ大隈重信」『維新と興亜』9月号掲載
⑧「老農 塚田喜太郎のこと」2023年6月19日

⑦「幕末史における水戸学、国学の隆盛から」2023年6月4日
⑥「幕末史の思想の変遷について」2023年6月3日
⑤「なぜ、大久保利通は評価しづらいのか」2022年7月23日

④「福岡県議会傍聴記」2022年3月6日 転載文
③「『名詞』も日本語です」2022年1月26日 転載文
②「歴史認識の相違はどこから」2022年1月25日 転載文
①「日本の旧植民地台湾と朝鮮の意識の相違」2022年1月24日 転載文

『人参畑』会報2024年11月浦辺登寄稿「廣田弘毅夫人・静子について」

「武士の名誉とは」西日本新聞〔風車〕欄(2024年11月21日)

㉓「時を超えた結びつき」西日本新聞〔風車〕欄(2024年10月24日)

㉒「水洗トイレ」西日本新聞〔風車〕欄(2024年9月19日)

㉑「佐賀の風土と五・一五事件」 維新と興亜2024年9月号 掲載

五・一五事件の思想の背景をたどる

前号(令和6年3月号)において、五・一五事件での海軍青年将校らが集った香椎温泉旅館跡に立つ「曙のつどい」碑を紹介した。その碑の裏面には、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件が一連の行動であると刻まれている。現今、これらの事件は個別に扱われ、とりわけ、二・二六事件は陸軍の皇道派と統制派の対立として教える。

そもそも、なぜ、五・一五事件(昭和7年、1932)の海軍青年将校らは蹶起したのだろうか。大正10年(1921)のワシントン軍縮会議での統帥権干渉問題。農民の困窮を顧みない癒着した政財界の糾弾。アジアの植民地解放という動機が考えられる。しかし、その動機、思想の背景に人的関係、風土の気質が関係していたのではないか。そう考えるのも、海軍青年将校たちの出身地が佐賀県に集中しているからだ。佐賀県の思想といえば山本常朝の『葉隠』、水戸学の系譜に連なる枝吉神陽(1822~1862)の「義祭同盟」が有名だ。今も、佐賀市の龍造寺八幡宮に隣接して楠正成父子を祭神とする楠神社があり、拝殿脇には義祭同盟碑もある。海軍青年将校らの思想に何か風土的な影響があるのでは・・・と思い、佐賀県を訪ねた。

 

佐賀市を訪ねる

令和6年(2024)1月、佐賀県佐賀市に向かった。通常、佐賀市に行くには福岡市中心部からは博多駅を経由する。しかし、筆者が居住する福岡市西部からは唐津駅(佐賀県唐津市)経由でも行くことが可能。そこで今回、唐津駅を経由し、JR唐津線で佐賀駅に至るコースを選択した。このコース上には、海軍青年将校の村山格之、黒岩勇の故郷である佐賀県多久市、小城市を通過する。地の気というか風土を見てみたいということもある。

唐津駅からは昔懐かしい2両編成のディーゼルカーに揺られる。この沿線には昔、三菱鉱業相知(おおち)炭鉱があり、石炭を満載した列車が往来した場所であり、唐津市はその昔、石炭の積み出し港として栄えた町だった。車窓からの田園風景を楽しむ。

唐津線の多久駅、小城駅を経ておよそ1時間、高架線となった佐賀駅に到着。ここから佐賀鍋島家の居城であった佐賀城跡にある佐賀県立図書館まで歩いてみる。一直線の大通り左右には平成30年(2018)に開催された「佐賀維新博覧会」で主役を務めた鍋島直正、大隈重信、江藤新平らの銅像が林立している。それらを一つ一つ写真撮影しながら図書館に至る道を歩く。途中、旧長崎街道に面しての龍造寺八幡宮、楠神社にも立ち寄り参拝。あの「義祭同盟碑」も確認する。

五・一五事件は海軍青年将校が主導し、陸軍青年将校、民間人が関係した事件だ。この海軍青年将校の中心人物は藤井斉(1904~1932)だが、藤井は第一次上海事変で戦死し、直接に事件には関係していない。しかし、この藤井の意思を継ぎ、三上卓、黒岩勇、村山格之、古賀清志らが蹶起し、犬養毅首相や警視庁などを襲撃した。この藤井、三上、黒岩、村山、古賀(長崎県佐世保生まれの佐賀育ち)らは佐賀県出身であり、ここに、何か郷土特有の思想、風土があるのではないかと考えた。佐賀県立図書館の郷土資料コーナーで、海軍青年将校らの出身地である佐賀県多久市、小城市に関連する資料を探ってみる。

 

藤井斉に関する資料

まず、藤井斉の資料を探してみる。佐賀県立図書館架蔵の小城郷土史研究会会報誌で藤井斉についての記録を目にした。その中に、意外にも血盟団事件での領袖である井上日召(1886~1967)についても含まれていた。井上は満洲の公主嶺(吉林省)にあった仏心寺で参禅したが、仏心寺は佐賀県小城市芦刈町の福田寺(曹洞宗)が本寺と記されている。福田寺の二十世住職は東大心(あづまだいしん)であり、二十一世として福田寺を継承する予定であった東祖心(あづまそしん)が檀家の娘と恋に落ち、満洲に逃避して開いたのが仏心寺である。そして、満洲に道を求めて流れきた井上日召が訪れ参禅したのが仏心寺である。日召が満洲の地で座禅を組んでいた背景には、禅寺(福田寺)が根本にあったことに少なからず驚いた。

従前、日召が茨城県大洗町の護国堂(日蓮宗)にいて、そこに海軍霞ヶ浦航空隊(茨城県土浦市)に所属する藤井斉らが集ったと思っていた。しかし、藤井は旧制佐賀中学(佐賀県立佐賀西高校)に通学する途次、福田寺の近くを通学路にしていた。末寺の満洲・仏心寺にやってきた日召との関係性は見えない糸で早くにつながっていたのだった。実際に、藤井が日召に合ったのは野口静雄(佐賀県出身)の伝手だった。野口は拓殖大学から安岡正篤の金鶏学院に学び、茨城県職員となっていた。この金鶏学院に野口がいたことから藤井は権藤成卿ともつながった。

藤井斉は旧制佐賀中学を経て海軍兵学校に入校。将来を嘱望される海軍士官となったが、政治改革についての考え、意見を有していた。この思想の背景には満洲・仏心寺の本寺である福田寺が影響していると見るべきではないか。清水芳太郎が編集した『五・一五事件』によれば、維新遂行のため藤井が古賀清志、村山格之、三上卓、伊東亀城、大庭春雄に団結を呼びかけた。その後、伊東が山岸宏に、古賀清志が中村義雄に、三上卓が林正義、黒岩勇を勧誘。林が塚野道雄を引き込んだ。同郷の海軍青年将校らが集結し、志を同じくする仲間が行動するのも時間の問題でしかなかったということになる。

蛇足ながら、1963年のインドネシアで開催されたガネフォ(令和6年1月号参照)に紀地三明の変名で日本側関係者として加わっていた黒岩勇の妻は福田寺の檀家の娘という。

 

 

九州は「水戸学」の故地なのか

五・一五事件に関係した海軍青年将校の故郷を訪ねることで、「何か」を得ることができるのではないかと思っていたが、意外な事に気づいた。それは「水戸学」の故地は九州ではないのかということ。

そもそも、「水戸学」は水戸光圀の「大日本史」編纂事業が基礎となり、明国の儒学者である朱舜水(しゅしゅんすい、1600~1682)が日本に亡命したことが起爆剤となる。この舜水だが、明国が清国(満洲族政権)に侵略されたことで万治3年(1660)に長崎にやってきた。当初、その舜水の生活を支えたのは筑後柳川藩(福岡県)の儒学者安東省庵(あんどうせいあん、1622~1701)であり、朱舜水の長崎滞在の申請書を長崎奉行に提出し、佐賀小城藩主の鍋島直能が同意をしたことで安堵を得たのだった。朱舜水のおよそ6年にわたる長崎滞在生活は安東省庵、鍋島直能の支援によるものだった。安東省庵は自身の禄の半分を師である舜水に捧げた。

やがて、水戸光圀(1628~1701)とは書簡を交わすほど親しい関係にあった小城藩主の鍋島直能の推挙もあって舜水は水戸光圀の招聘に応じた。朱舜水といえば、後醍醐天皇(1288~1339)の忠臣楠正成(1294~1336)を見出し、「楠公賛」などの漢詩を著した。これが楠公精神として幕末の勤皇の志士たちの精神的支柱となるが、安東省庵は長崎在住中の朱舜水に楠正成について詳細な紹介文を送り、舜水の意見を求めていた。一般に「水戸学」といわれるが、その故地は九州にあったのではないか。

ちなみに、安東省庵が朱舜水を知るきっかけとなったのは、弟子の権藤宕山(ごんどうとうざん)がもたらした。宕山とは、あの権藤成卿の五世前の先祖になる。この縁も不思議といえば、不思議だ。

楠神社(佐賀市)

⑳「日本の危機救う浮橋」西日本新聞〔風車〕欄(2024年8月12日)

寄稿文掲載:「和平交渉」西日本新聞〔風車〕欄(2024年7月22日)

寄稿文掲載:「ストライキ」西日本新聞〔風車〕欄(2024年6月6日)

寄稿文掲載:「灯台下暗し」西日本新聞〔風車〕欄(2024年4月24日)

寄稿文掲載:「相生由太郎」『人参畑会報誌』(2024年3月29日)高場乱の法要にて配布

寄稿文掲載:「疱瘡」西日本新聞〔風車〕欄(2024年3月27日)

寄稿文掲載:「五・一五事件と新興国スポーツ大会」『維新と興亜3月号』

映画評「帰ってきたヒトラー」デヴィッド・ヴェンド監督、ティムール・ヴェルメッシュ原作

・歴史は繰り返す

1945年(昭和20)4月30日、アドルフ・ヒトラー(1889~1945)の自殺によって欧州における第二次世界大戦は終結した。連合国軍はナチス・ドイツ、狂人ヒトラーをニュールンベルグ裁判によって徹底的に弾圧した。極めつけは収容所でのユダヤ人虐殺だが、これは世界を震撼させ、ヒトラーは絶対悪となった。

その絶対悪のヒトラーが現代にタイムスリップして蘇ってきたら、どうなるか。本作品は、2012年に発表された『帰ってきたヒトラー』(ティムール・ヴェルメッシュ著)を映画化したもの。パロディ作品とみるか、社会風刺と見るかは、視聴者の判断。

視聴後に感じたのは「歴史は繰り返す」という言葉だった。第二次世界大戦終結後、ドイツは東西に分断された。しかしながら、即座に西ドイツは軍を復活した。けれども自国の防衛に限ったものであり、他国への干渉は厳しく制限された。

2022年2月、ロシアはウクライナに軍事侵攻した。ロシアのプーチン大統領をヒトラーになぞらえ、プーチンを批判し、EUはウクライナ支援へと世界を誘った。しかし、今回のロシアのウクライナ軍事侵攻においてドイツは動けない。せいぜい、戦車などを提供するにとどまっている。そういった欧州環境の中、本作品を視聴する。10年以上前の作品でありながら、すでにドイツ国内においてEUが主導した移民への不満、政治不信、経済への不満が水面下で濁流となっていることを知る。この社会状況は、かつてのナチス・ドイツが出現する社会に酷似している。

タイムスリップしたヒトラーの言動に、現代ドイツの国民が不満を表明する。移民による平均知能指数の低下、治安、秩序、社会不安など、男女ともにあからさまに不満を爆発させる。これらを見ながら、笑えない。なぜならば、この映像に登場し、不満を述べる人々と同様の人が日本にもいるからだ。かつての日本は、ナチス・ドイツと同じく戦争裁判で裁かれ弾圧を受けた。東條英機は今もってヒトラーと並び称される絶対悪だ。

1945年(昭和20)、ドイツ、日本の敗北後、連合国軍によって両国の歴史は「勝者の歴史」に塗り替えられた。連合国軍にとって都合の悪い事実は闇に葬り、「絶対悪」のレッテルがはがれないように誘導する。ナチス・ドイツの象徴であるハーケンクロイツは「無かった」ことにされた。日本の国旗、旭日旗も然り。その結果、表には出ない不満が沈殿している。

平凡な議論は偏りがない。世間一般は、安心感を求めて平凡を好む。そして、本音は言わない。この心の隙間を突いたのがナチス・ドイツだった。扇動によって集団を操作した。そう考えると、本作品は日常の常識を疑えと主張してはいまいか。人間の本質は変わらない。「歴史は繰り返す」。いくら、くさい物に蓋をしても、再びヒトラーは蘇る。人間心理の本質をついている本作品は、「笑うな危険」というが、笑えなかった。

⑫「新興国スポーツ大会と日本」維新と興亜1月号より

⑪「入来文書(いりきもんじょ)に関する講演会を聴いて」

令和5年(2023)11月19日(日)、午後2時から鹿児島県薩摩川内市で開かれた「入来で語る数奇な入来文書の運命」の講演会に参加した。講師は横浜市立大学名誉教授の矢吹晋氏。

まず、聞きなれない入来文書だが、これは平安時代後期から鎌倉時代にかけ、公家から武家に全国各地の荘園の支配権が移っていく様、いわゆる封建制の成立過程を知ることができる文書である。それも入来という狭い限られた空間での文書だけに、その過程が克明に理解できる文書。この文書をアメリカ・イェール大学の研究者であった朝河寛一(1873~1948)が読み解いた。それが翻訳され欧米で発表され評価を受けた。

しかし、日本では朝河寛一の名前も業績も広くは知られていない。その背景には、二つの要因がある。一つは、「勝者の歴史」としての薩摩島津家との関係性。もともと、島津家は京都の近衛家の配下にあった。その近衛家の各所の荘園を管理していた武家が島津家。反して、入来院家こと渋谷家が地頭職として鎌倉から派遣され薩摩を管理していた。ここで京都の朝廷、鎌倉幕府との二重支配下での薩摩だったが、やがて軍事力の差から島津家が支配者として君臨する。君臨するからには、政権の正統性を必要とする歴史書、系譜が作られる。その捏造の歴史書、系譜の矛盾を入来文書から指摘したのが朝河寛一だった。朝河が明治維新での敗者である二本松藩士族の末裔であったことも関係しているかもしれない。

次に、朝河の論文は欧米で発表されたにも関わらず、1945年(昭和20)の大東亜戦争敗戦後も日本では受け入れられなかった。封建制度下において農民は奴隷に等しく、農奴の解放が左派系の思想だった。しかし、入来文書には農民が奴隷に等しいとの記述はない。左派系にとっては、都合の悪い入来文書だった。大東亜戦争後の日本の大学は左派系の学者の巣窟だった。当然、入来文書の存在は共産革命の理論からは迷惑な文書だった。

矢吹晋氏の話は、入来文書の解説が中心。しかし、筆者はあえて研究者である朝河寛一にまつわる質問を行った。満洲ハルビンに向かった伊藤博文(1841~1909)が朝河の著書である『日本の禍機』を持参していたのか?朝河は日米戦争回避のために、金子堅太郎(1853~1942)にレターを送ったのか否かの2点。

伊藤と朝河が親しい関係にあり、朝河の『日本の禍機』を持参した公算は高いと考えられるが、確証は得られていないと矢吹氏。レターも、複数の日米戦争回避支持者の日本人に送られており、金子も当然、その内の一人だとのこと。

また、日露戦争ポーツマス講和条約では小村寿太郎に注目が集まるが、その周辺の人物を当たらなければ、真実は不明という。その当該人物が阪井徳太郎(1868~1954、三井合名理事、外務大臣秘書官)という人。これは、懇親会で矢吹氏が語ってくれた。

歴史の矛盾を突き詰める術として朝河寛一が著した『入来文書』は、貴重であると同時に、現代に幾重にも疑問を投げかけている。広く知らしめるべきと考える。

⑩「五條家御旗祭りに参加 明治維新は南朝の王政復古か」『維新と興亜』11月号掲載

⑨「玄洋社社長・平岡浩太郎の悼辞を読んだ大隈重信」『維新と興亜』9月号掲載

⑧「老農 塚田喜太郎のこと 」2023年6月20日

現代日本において、塚田喜太郎(文政3~明治23、1820~1890)の名を知る人はごく僅か。一介の農夫が歴史に名を刻むなど稀なことだが、名を遺した。喜太郎は現在の鹿児島市武町、中山町における新田開発、大隅半島肝付での開墾に成功。沼や池を埋め、灌漑、土壌改良を成し遂げた。その手腕を乞われ、明治13年(1880)、現在の福島県郡山市の安積開拓地に招かれた。招聘したのは奈良原繁。奈良原といえば、文久2年(1862)の寺田屋事件で、君命を受け、有馬新七らの決起を抑えた人として知られる。

齢60を過ぎた喜太郎が招かれた安積開拓地には、九州久留米の士族たちが入植していた。いわゆる、士族授産として刀を鍬に握り替えての武士の農法だった。喜太郎を招いた奈良原には一つの禍根があった。久留米の入植者たちは、寺田屋事件に関わった真木和泉守を領袖とする久留米勤皇党の残滓でもあったからだ。奈良原の上司ともいうべき人は大久保利通。大久保も文久2年に真木と福岡筑後の羽犬塚で日本の行く末を討議した仲だった。さらに、真木の主君であった久留米藩主・有馬頼永の正室は島津斉宣の娘・晴姫だった。薩摩と久留米の、切るに切れない複雑な事情があったのだ。

しかし、喜太郎にとって、そんな武士の義理など関係ない。薩摩で蓄えた自身の農業技術を新天地で試したい。面白い!そんな躍動感に駆られたに違いない。お天道様の下、広大な大地が相手の農業においては、武士の論理、自尊心など何の役にも立たない。天地の間に生きる人はすべからく同じ。そして、「生きることは食べること。食べることは生きること」。百の言葉より実際の行動をもって、喜太郎の思いは見事、新天地の安積開拓地で結実した。けれども、明治23年(1890)2月21日、故郷鹿児島の方に向けてくれとの言葉を遺し喜太郎は病没。見事、福島県郡山に骨を埋めたのだった。

同じ日本でも東北地方は貧しかった。冷害、日照り、大地震、大津波で東北の民はバタバタ倒れていく。この時、近代農法を確立しなければ永久に東北の民は救われないとして岩手県盛岡に赴いた薩摩の男がいた。玉利喜造(安政3~昭和6、1856~1931)だ。明治8年(1875)、風雲急を告げる鹿児島において、西郷隆盛に世界情勢を説いた。「おはんは、学問でこん国を立て直しもんせ」との西郷の声に押し出され、玉利喜造は上京、アメリカ留学も果たした。農科大学教授(現在の東京大学農学部)の職を辞し、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)の初代校長に着任。東北に近代農業の礎を築いた。その卒業生には「雨ニモ負ケズ」の詩人、花巻農学校教師であった宮沢賢治がいる。

西郷は農本主義者と称えられる。農本主義とは「農は国の本なり」という思想だ。まず、民の安寧の初めは食べること。人の生命を支える農業は国の根幹を支えることに繋がる。西郷、大久保、奈良原らは、世の安寧のため農業で人の生命を救いたかった。その最前線で黙々と老農・塚田喜太郎は農業技術を伝授し、日本の民を支えた。故に、この老農・塚田喜太郎の功績を称えることは、西郷、大久保、奈良原らの願いを伝えることにも繋がるのだ。




⑦「幕末史における水戸学、国学の隆盛から」2023年6月4日

幕末史において、水戸学が全国の志士に広まった。これは、水戸藩の水戸光圀(1628~1701)が中国の司馬遷(紀元前145年頃生、前漢時代の歴史家)の『史記』に倣って『大日本史』の編纂事業を始めたことに起源がある。日本各地に残る歴史書を取り寄せ、日本の歴史を編纂したもの。この編纂事業の最中、大陸では清(満洲族)が明(漢民族)を倒したことから朱舜水(1600~82)という明の儒学者が日本(長崎)に亡命。水戸光圀はこの朱舜水を招聘し、編纂事業にあたらせた。これが学問としての「水戸学」(天保学とも)の源流となり、『大日本史』は「倫理道徳の書」と見られる。「歴史の事実をありのままに述べれば勧善懲悪の意義は自ずから現れ。政治が興隆しているか否かは歴史を直視すれば火を見るより明らかだ」とする。

この時、朱舜水が絶賛したのが南朝(後醍醐天皇を祖)の忠臣・楠木正成(1294~1336)だった。この楠木正成を絶賛する漢詩が広まり、志士たちのナショナリズムが高まる。そこに膨大な量の『大日本史』を読み込んだ頼山陽(漢詩人、1781~1832)が『日本外史』としてダイジェスト版を編纂し、ベストセラーになった。ここから、幕府の封建的身分制度を倒し、天皇親政、一君万民の国に変革しなければとの考えが強まる。特に、嘉永6年(1853)のペリー来航は刺激となった。

幕末、貨幣経済が浸透していった社会において、商人階級は潤沢な資金力を保持していた。貧困に喘ぐ武士階級の株(石高という配当)を買い、武士となった。代表的な人に勝海舟(1823~99)、榎本武揚(1836~1908)などがいる。

 儒学、水戸学とも相まって、日本の万葉集などを極めることで日本人としての感性から日本の在り方を説く人が増えた。一般に国学といわれるものだが、代表的な志士に平野國臣(1828~64)がいる。幕末の世相から国学の影響を知るには島崎藤村(1872~1943)の『夜明け前』が参考になる。

蛇足ながら、仏教は封建的身分制度の江戸時代、「五人組」と呼ばれるように体制側に組み込まれていた。「若党」と呼ばれる武士階級で継ぐ家を持たない者を収容する機関でもあった。この影響もあり、思想というよりも制度の上から明治期の廃仏毀釈運動の標的になった。

明治期、敗者となった旧幕府側に新しい反体制意識としてキリスト教が勃興した。さらに、大正、昭和になると貧窮問題の解決として社会主義の考えが広まった。

そして、昭和20年(1945)8月以降、「民主主義」という新しい西洋の手法が導入され、日本の古くからの慣習と摩擦を起こしながら現代に至っている。

⑥「幕末史の思想の変遷について 1」

孔子(紀元前552頃の生まれ)は儒家(儒学)の代表として語られる。この儒家のほか、法家、道家など、様々な思想形態が中国にはあった。「百家争鳴」とは、様々な思想家が自身の考えを戦わせたことから誕生した言葉。

しかし、中国の皇帝は儒家のみを国の教えとし、他の思想家は抹殺してしまった。「歴史は勝者によって作られる。思想は為政者によって焚書される」の言葉通り。後に、この儒家の思想も朱子(1130年頃の生まれ、朱熹とも)による朱子学(宋学とも)という一派が形成される。この朱子学の基本は「親と子」「君と臣」の関係など、秩序の在り方を重要視し、忠節を重んじる。これは、支配者と被支配者の関係からいえば、支配者にとって都合の良い考えだった。ここで、徳川幕府は封建的身分制度(門閥制度)の維持のために朱子学を尊重した。

翻って、幕末に下級武士に尊重されたのが陽明学だった。これは王陽明(1472年頃の生まれ)が説いた考えだが、代表的な言葉として「知行合一」がある。知識や物事の理屈を理解した以上、行動に移さなければならないとする。このことは、江戸時代末期、弛緩した封建的身分制度を変革させる思想でもあった。故に、陽明学は「革命の思想」とも呼ばれた。

・朱子学=保守=仁(愛)と対立
・陽明学=革新=仁(愛)を尊重

江戸時代末期、高杉晋作が上海に行って漢文の聖書を読んだ際、「これは、陽明学ではないか!」と言ったのは有名な話。聖書の「愛」と陽明学の「仁」が同じだったからだ。

ちなみに、中国古典において、民衆のことを「牧民」と表現する。家畜と同じ民衆を統治する愚民政治は聖人のやり方であると教えていたからだ。このことは「知は両刃の剣」と呼ばれていたことにつながる。民衆の各人が賢くなりすぎると、国が治まらなくなるからだ。

中国には「墨子」という考えもあるが、これは「兼愛思想」と言われ、キリスト登場以前にあった考え。ロシアのトルストイは「キリストの出現によって墨子の考えを広めることができた」とまで言い切った。

更に「韓非子」という思想もあり、これは儒学の性善説に対し性悪説を基本にしている。ゆえに、法の規制によって民衆を統治しなければならないともいう。加えて、経世済民という観点から、計画経済、実学に近い考えをも示す。大久保利通は中央集権、富国強兵の策として「韓非子」をテキストにしたともいわれる。

⑤「なぜ、大久保利通は評価しづらいのか」 浦辺登

 大久保利通は西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」と呼ばれる。しかし、いまだ、その評価は西郷隆盛に比べて低い。特に、同じ薩摩(鹿児島県)出身であり、若き日は同志として活動していたものの、明治10年(1877)の西南戦争では勝者と敗者の関係になった。日本人の判官びいき、心情も作用し、評価の軍配は西郷隆盛に大きく傾いている。

 では、なぜ、大久保は評価の対象になりづらいのか。それは、日本の封建社会における学問体系が儒学中心であったことに起因する。日本では孔子、孟子に代表される儒学が思想の中心にあった。しかし、中国での思想は儒学(儒家)だけではない。

 

・儒家(性善説) 孔子、孟子、荀子

・墨家 墨子

・名家 公孫龍

・道家 老耼、荘周

・法家(性悪説)管仲、韓非

・陰陽家 鄒行

 

 中国では、家=派として、それぞれが独特の理論を戦わせており、その中でも、性善説を説く儒家の教えは、為政者に支持された。しかし、この儒家に反して性悪説を説く法家は、為政者に厳しい自律を求める。同時に、庶民には富国強兵、中央集権国家としての法治を強いるために嫌われた。自然、為政者や庶民は儒家の孔子、孟子の教えを好む。

 先述の大久保は、儒家ではなく法家の『韓非子』を愛読の書とした。儒家の教えは平時には良いが、有事には機能しない。明治時代は欧米列強に囲まれた「有事」だった。故に、大久保は有事に有効な法家の『韓非子』をテキストにしたのだった。

 『韓非子』は儒者からは今も「悪徳の書」と呼ばれる。それは、性善説の儒者からすればライバル関係にあることから当然のこと。しかし、明治時代は有事。性悪説の法家(富国強兵、中央集権、法治)で対処しなければ諸外国に対抗する事はむつかしい。

 大久保利通を評価するには、科学思想を加味した法家の考えを理解しなければならない。為政者にとって、耳が痛い話が並んでいる。それだけに、為政者は忌避したい。しかし、まず、『韓非子』を一読してでなければ、大久保の評価は進まない。惜しむらくは、西郷と共に、短命であったことも大久保の評価に結びつかない原因にある。

令和4年(2022)7月21日

福島県郡山市には大久保を祀る「大久保神社」がある

④「福岡県議会傍聴記」 浦辺 登

 令和4年(2022)3月3日(木)の午後、福岡県議会を一般傍聴。月例で開催している「人参畑塾」(地域の歴史文化の勉強会)のメンバー5名で参加した。今回、原中まさし県議会議員が「本県の歴史的認識と今後の広報について」として一般質問をされるので、これを聞き逃すわけにはいかない。とはいえ、新型コロナウイルスの蔓延防止期間中だけに、傍聴席は厳しく人数制限をされていた。しかし、傍聴券を入手できたのは幸いだった。

 原中まさし県会議員の質問趣旨は、

  • 2026年の福岡県発足150周年事業について
  • 公立学校での近現代史教育の取り組みについて
  • 旧福岡県公会堂の活用、特に中国革命の孫文が演説をしたことにからんで
  • 福岡県が管理する西公園(福岡市中央区)などの歴史資源としての活用について

 

 まず、原中県議によって廃藩置県後の福岡県の近代史を具体的に説明。さらに、中国革命の孫文(国父、革命の父)が、日本人、特に九州人と非常に近い関係にある。玄洋社の頭山満、平岡浩太郎らが孫文を強く支援していた。福岡県の財界人も支援していたと説明。議場の議員の方々も、興味深く原中県議の質問に興味深く耳を傾けていたのは傍聴する側としても壮観だった。

 この質疑に対し、服部県知事、吉田教育長から回答があった。
 なかでも、西公園の整備について、服部知事から加藤司書(福岡藩家老、筑前勤皇党領袖)、平野國臣に関係する公園だけに、その整備に対して前向きな回答があった。蛇足ながら、中国革命の孫文は、西公園にも立ち寄っており、このことも回答して欲しかったなあと思った・・・が、これは少々、マニアックか・・・。

 とはいえ、県議会の傍聴などということは初めてのことだっただけに、実に興味深い体験だった。傍聴に際し、写真撮影、携帯電話の電源を切るのは当然だが、コート、帽子の着用不可。(多分、銃刀類を隠し持っていないかの証明のためか?)拍手や発声、パフォーマンスは禁止行為。

 県知事の記者会見の際などは手話通訳者がいるが、県議会の議場においても必要に応じて手話通訳者は配置されるのか? 車椅子用の傍聴場所は用意されているが、弱視の方の為に、スクリーンがあっても良いのでは?などと傍聴しながら思った。

 今回、初の県議会傍聴だったが、選挙の時だけではなく、県民も議会を傍聴するのは良い事ではと考えた。


令和4年(2022)3月6日
(「浦辺登公式サイト」から転載)

③「『名詞』も日本語です」 浦辺 登

 日常的に使用している「ひらがな」の源流は漢字。「あ」は安、「い」は以、「う」は宇、「え」は衣、「お」は於。これは、漢字の書体の一つである楷書から、行書、草書となって生まれた。

 楷  書:角張った印象があるが、正しく書いた漢字

 行  書:楷書の文字を少し崩した漢字

 草  書:行書の文字をさらに崩した漢字

 ひらがな:草書の崩しようがない最終形

 ゆえに、漢字の最下流が「ひらがな」になる。
 今、中国(中華人民共和国)では、日本の「ひらがな」の「の」を商品名に加えることが流行している。「〇〇の〇」などだが、〇の箇所に中国の簡体文字が入る。ちなみに「の」の楷書は乃になる。要は簡体文字も源流は漢字だけに、商品名に漢字の変化形である日本の「ひらがな」が入ることにデザインとしての文字の面白さを感じる。ところが、中国のナショナリズムが反発を示すという。

 この話題を読みながら思い出したのは、清朝(満洲族政権の中国)末期の話。明治28年(1895)の日清戦争講和後、日本に留学する清国人が多かった。小国日本が大国清を撃ち破った要因は、日本が洋学(欧米の学問)を取り入れたからと分析。その秘密を探るべく、清国は大量の留学生を日本に送り込んだ。

 そして、帰国した清国人留学生は清国政府の新進気鋭の官僚となる。官僚組織では、日本語の単語が役所で飛び交う。日本の知識に感化され、母国を見失うのではと心配する官僚トップが留学組に命令する。
「日本語の名詞を多用するのは、まかりならん」
 すかざず、留学組が反論する。「今、口にされた『名詞』という単語も日本語ですけど・・・」

 反発を示す中国人には「歴史に学べ」と伝えたい。知らないうちに中国社会に浸透し使用されている日本語は多い。「ひらがな」の「の」の一文字で日本への対抗心を露にするよりも、簡体文字の誕生秘話でも探ってみたらどうだろうか。

 尚、『名詞』という日本語の文法用語だが、江戸時代のオランダ通詞である志筑忠雄がオランダ語から翻訳したものである。

令和4年(2022)1月26日
(「浦辺登公式サイト」から転載)

②「歴史認識の相違はどこから」 浦辺 登

 日本の歴史教科書において明治27年(1894)の日清戦争、明治37年(1904)の日露戦争は「侵略」戦争であると教える。この根源は昭和47年(1972)9月の日本と中華人民共和国(中国)との国交樹立の時に始まる。当時の中国の周恩来首相が「半世紀にわたる日本軍国主義者の中国侵略の始まり」として日清戦争(甲午中日戦争)を取り上げたからだ。周恩来首相からすれば、「半世紀」、五十年という「侵略」の長期間を強調したいとの外交的意図(外交交渉で優位に立ちたい)が見える。

 しかし、近代中国(中華民国)を建国した国父の孫文は、この日清戦争について日本批判を行っていない。むしろ、日本が「革命戦争」を我々の代わりに戦ってくれたと述べる。そもそも、この中国との戦争でありながら「日清戦争」と呼称する由来は、清国(満洲族政権)との戦争だからだ。1644年から1911年までの260年余、漢民族は満洲族の植民地支配下にあった。ゆえに、漢民族の孫文とすれば。日清戦争は日本が漢民族の革命戦争(政権樹立)を代わりにやってくれたと見ているのだ。

 さらに、日本とすれば、清国と結んだ不平等条約改正の戦(いくさ)が日清戦争でもあった。日本史年表には記載されないが、明治17年(1884)、明治19年(1886)の二度に渡り、長崎で清国水兵と日本の警察とがもめた。特に、明治19年の衝突では、多くのけが人、死傷者を出す市街戦を展開している。とはいえ、治外法権下の日本は清国水兵を逮捕、投獄することはできない。当時、この不平等条約改正問題は清国に限ったことではなかったが、大国として武力を誇示する清国は日本にとって脅威だった。

 周恩来首相の外交交渉での演説であったかもしれないが、史実の確認もせずに「侵略」戦争として受け入れる。なんと、情けない日本だろうか。国父の孫文と周恩来首相の主張の相違は歴史認識の相違につながる。早急にこの歴史の不平等を解消すべきと考える。

令和4年(2022)1月25日
(「浦辺登公式サイト」から転載)

①「日本の旧植民地台湾と朝鮮の意識の相違」 浦辺 登

 大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)後、かつて日本の植民地であった台湾は中華民国が統治し、朝鮮は北朝鮮と韓国とで分割統治することとなった。その旧植民地である台湾と韓国との日本に対する接し方が異なると言われる。簡単に言えば、「親日の台湾」「反日の韓国」である。この相違の原因はどこにあるのか。

 

 一、島の台湾と半島の韓国

 二、民政の台湾と軍政の韓国

 三、交際の短い台湾と交際の永い韓国

 

 台湾は、清国(満洲族政権の中国)から「化外(けがい)の地」と呼ばれていた。化外とは、清国皇帝の徳が及ばない未開の地という意味。反して、朝鮮は清国の属国であり、支配下にあった。良く言えば、清国皇帝の影響力が及ぶ地域。

 台湾が日本領に組み込まれた後、児玉源太郎が総督になった。しかし、実際の治政は後藤新平という医者が民政長官として行った。アヘン撲滅、衛生環境整備、インフラ整備に注力した。アフガニスタンで銃弾に倒れた中村哲医師が現地で尊敬の対象であったように、衛生環境の整備は地元民に喜ばれる。しかし、併合後の朝鮮では、同じ軍人が総督でも、施政官は陸軍の憲兵司令官。徹底した言論弾圧、統制だった。国境を接するロシア、清国の扇動者を排除する目的があったからだが、統治下の民は息苦しく、反発を覚える。

 歴史的に台湾と日本とは、間接的な交易関係。反して、朝鮮とは直接的な関係が永かった。ゆえに、相互に、先入観、固定観念が邪魔をする。百済(くだら)からの亡命者の受け入れ、元寇、秀吉の朝鮮征伐などもあった。ここに、人間(動物)としての感情の行き違いが生じる。

 これらを踏まえ、日本と台湾、日本と韓国との関係を見ていくと、「同じ植民地」として論ずることがいかに不毛であることか。親日の台湾、反日の韓国という図式が永遠に続くとも思われない。台湾と韓国との外交をいかに考えるかが重要になってくる。

 更に、なぜ、陸軍軍人の明石元二郎が台湾総督として敬慕されるように至ったのか。これはもう、「歴史に学ぶ」しかない。

 

令和4年(2022)1月24日
(「浦辺登公式サイト」から転載)

ある日突然、見慣れた景色の中から、懐かしい物が消えてしまった。そんな経験をされた方は多いと思います。世の事情と言ってしまえばそれまでですが、せめて、どうにかならなかったのか、何か遺せる手段はあったのでは・・・という後悔の念だけは残ります。 個人の力では限界がある。故に、「もっと自分の町を知ろう」という共同体を創設し、有形無形の財産を次世代につなげる。これが、一般社団法人「もっと自分の町を知ろう」という団体を設立する目的です。

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