82.「心に自由の種を蒔け!オッぺケペー!」
ここから福岡県議会の体質、議員の資質を問題視するマスコミ報道が続いた。しかし、なぜ、これほどの自浄作用の働かない集団になってしまったのかを私は考えていた。
まず、福岡県という自治体だが、少々、その構成が他県と異なる点がある。それは福岡県には福岡市、北九州市という政令指定都市がある。この政令指定都市だが、地方自治法に基づき、人口50万以上の自治体が、都道府県から権限、財源を譲渡されている都市のことをいう。簡単にいえば、福岡県、北九州市、福岡市という3つの自治体を統合して福岡県を構成している。さらに、人口比率でみると、福岡県全体で約507万4千人だが、福岡市は約167万2千人、北九州市は約89万8千人となり、2つの政令指定都市で福岡県の人口の半分を占めている。これを見ると、政令指定都市選出の県議会議員は県政に必要なのかという疑問すら湧き起こる。国政においても参議院は衆議院議員に落選した議員の救済組織になっている。ある意味、福岡県議会も参議院も特権階級組織になっているのではないか。日々、国家国民のためにと尽力されている議員がいるのも確かだが、議会組織が特殊な集団になっているのは否定できない。
そこで、思い出したのが集団という構成員の心理を述べた本だ。集団という範囲、規定が多岐にわたるため、曖昧な書評かもしれないが、集団にはこういう心理が働くということを読み取っていただきたい。
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『集団はなぜ残虐にまた慈悲深くなるのか』釘原直樹著、中公新書「月刊日本」2025年7月号掲載
序章、終章を加え、全9章で構成される本書だが、その内容からは様々なことを考えさせられた。関東大震災での一般市民による朝鮮人虐殺、ナチスの強制収容所でのユダヤ人大量虐殺、大東亜戦争(太平洋戦争)での自決の脅迫など、極限状態とはいえ、冷静に考えればなぜ?という事件は多い。反して、同じ人として、朝鮮人を保護した日本人もいる。ユダヤ人に食を分けたナチスもいる。上官の目を盗んで、住民を庇護した兵隊もいる。これらの行動は集団心理なのか、個人の資質なのか判断に苦慮する。
著者は、様々な集団心理の実験を行うことで、集団に服従する人間心理の分析を試みた。その過程と結果が述べられているが、恐ろしいと思ったのは、大義名分によって人が責任回避をすることだ。更には、自身を善人と思っている人は他者を攻撃するという心理だ。とりわけ、集団心理では自分に自信の無い人は他者に服従しやすく、「おかしい」「悪い」と思っていても、周囲に同調して「悪事」を働くことだった。このことは、ユダヤ人強制収容所の責任者であったアイヒマンが、虐殺行為を「自分には責任がない」と断言していることからも窺える。
評者が関心をもったのは、1996年に福岡空港で起きたガルーダ・インドネシア航空機の事故だ。エンジントラブルから滑走路をオーバー。炎上する機体から乗客達が避難した調査結果である。緊急事態という状況判断ができずに座り込んだままの人、自身の手荷物、靴に執着する乗客の姿は意外だった。反して、2024年1月の羽田空港での日本航空、海上保安庁機の接触から起きた火災事故は乗客乗員379人が奇跡の脱出を果たした。的確な判断、対応、指示が見事に連携した事実だ。この二つの航空機事故の差異は何なのか。危機に際し集団を安全に導くリーダーの存在が欠如なのか、人間関係の希薄なのか。考える事々は実に多かったが、最高権力者も集団に服従するという点は不気味だった。 (終)
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この集団心理だが、本来、人間の本質からすれば無関係にある。それは家庭という最小の集団でも同じ。しかし、異なる個人と個人とが生存本能を発揮するとき、ひとつの集団(社会)を構成する。当初は窮屈で仕方がない。ところが、いったん、その集団になじむとフィットする靴のように心地よくなる。すると、人間の脳は怠慢なので「考える」という行為から回避してしまう。これがナアナアの村社会、集団が完成する基本になる。
幕末、およそ250年続いた江戸幕府が脆くも崩壊してしまった。これは集団というナアナア組織になってしまい、誰も「考える」こともなく、慣例というズル賢い脳の機能が作用したからに他ならない。これは、明治政府ができても同じだった。議会を設けて相互のチェック機能を働かせようと自由民権運動が活発になると、政府が運動を弾圧した。そんな過程を経ての福岡県議会だが、県議会議員選挙というチェック機能がありながら、福岡県民も「どうせ」という言葉を大義名分に変えてナアナアにしてしまった。福岡県議会と県民、相互に責任放棄をしていたということになる。
こういう硬い話をしながら、思い出すのは自由民権運動を鼓舞した川上音二郎の「オッぺケペー節」だ。
貴女や紳士の扮装(いでたち)で
表面(うわべ)の飾りは立派だが
政治の思想が欠乏だ
天地の心理がわからない
心に自由の種を蒔け
オッぺケペー オッぺケペー
オッぺケペッポ ペッポッポー
私は、長年、この「心に自由の種を蒔け」という言葉の解釈に苦慮していた。しかし、リップマン(アメリカのジャーナリスト)の『世論』を読んでいるとき、音二郎が言っているのは「固定観念」を取り除き、各自が「考えろ」と言っていると理解した。新聞、テレビの報道も、鵜呑みにせず、各自が咀嚼しろいうことだ。
機会(議会)を設けて県議会を傍聴するのも心の自由(事由)の種になるのでは。














