66.「軍隊は社会の縮図」
6月27日、福岡県久留米市北野町で講演をするので、その最終打ち合わせで久留米市に行った。待ち合わせ場所は久留米市役所の20Fレストラン&カフェだった。素晴らしい筑後平野の眺望に、我を忘れてカメラのシャッターを切る。まるで、タワーからのパノラマを楽しむどこかの国の観光客そのもの。
この久留米市だが、幕末維新史においては歴史が複雑で、政府から弾圧された過去もあり、地元の方々も、どことなく、口が重い。その気だるさというか、心機一転にと考えたのが、陸軍の誘致だった。これは、いわば「一村一品運動」ならぬ、地方創生の起爆剤でもあった。その過程については、次の書評で大枠を知っていただきたい。
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『軍都久留米 近代都市への転換と地域の人々』山口淳著、花乱社(「月刊日本」令和6年(2024)7月号掲載)
・都市は生き物。故に、軍都も生き物
軍都久留米というタイトルから、多くの方は昭和7年(1932)の上海事変での「爆弾三勇士」を想起されるのではないだろうか。江下、北川、作江の三勇士は久留米工兵第18連隊に所属する兵士だったが、「軍神」として称えられ、日本全国が熱狂した。このことで、一躍、久留米は聖地となり「名所」となった。
しかし、本書は軍国美談を集約したものではない。陸軍の師団を久留米に誘致することで地域経済を発展させようとの目論見、誘致後の都市の変貌を『久留米市史』を基に、古老の証言も引用しながら変遷をまとめたものだ。久留米という都市は福岡県南部にあり、九州一の大河筑後川を擁している。古くは南北朝時代の合戦場跡もあり、交通の要衝、軍事上の拠点でもある。その重要な地点に陸軍が師団を設けるのは当然であり、それは現代に至るも陸上自衛隊幹部候補生学校が置かれていることでも証明される。
全10章で構成される本書には、軍都として久留米が発展するにあたり、土地の取得、兵舎、病院、墓地の建設、食料の購入、電信電話、交通機関、付随する市町村の商店の対応が逐一述べられ、中には将兵の為の慰安所、いわゆる遊郭までもが記されている。軍隊という近代化の象徴である組織が、農村地帯に与えた影響、その過程は都市の発展史として把握しておくべきだ。過疎化する地方都市は盛んに企業や工場などを誘致するが、正負を俯瞰するにも有益だからだ。
久留米は第18師団という組織を受け入れたが、その影響は地下足袋、タイヤなど、ブリヂストンに代表されるゴム産業を生み出した。これは第一次世界大戦でのドイツ兵捕虜収容所が久留米に設けられたという背景があるからだ。
更に、大正14年(1925)の軍縮による師団廃止を自治体が回避させようとの動きも見逃せない。廃止に代わり、他師団の移設ということで地元は安堵したが、その運動の陰に明治4年の久留米藩難事件関係者の姿が垣間見えるのも一興だ。 (終)
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この久留米市をもう一つの「軍都久留米」として見るのは、第一次世界大戦(1914年、大正3年)での青島戦で日本軍捕虜となったドイツ兵収容所が久留米にあったことだ。これについては、今回、『熊本・久留米俘虜収容所(1914―1920)の風景』(花書院)という写真集でドイツ兵収容所の実態を知ることができた。中国大陸の青島にいたドイツ将兵とはいえ、衣食住から生活環境、言語、風俗習慣まで、すべて異なる日本での収容所生活はどうだったのか。ドイツ兵収容所は日本各地にあったが、ハム・ソーセージの作り方を習った、ベートーベンの第九を演奏した、などの好意的な話が残っている。しかし、日常生活の詳細を知る資料はないものかと思っていただけに、この写真集はドイツ将兵の日常を知ることができて良かった。
特に、衛生観念が強いドイツ人だけに、糞尿、いわゆる便所はどうしたのだろうとの関心があった。九州初の水洗トイレは明治44年(1911)に飯塚(福岡県)の炭鉱王・伊藤傳右衞門が後妻の柳原白蓮のために設けたのが最初だった。しかし、限られた予算の収容所ではどうだったのだろうか。結果、写真集に掲載されていたが、ポットン便所だった。最大で一三一九名の収容者がいたわけだから、相当量の糞尿を汲み取っていたのは確かだ。写真キャプションにもあったが、糞尿の臭いはドイツ兵の悩み、苦痛の種だったという。くみ取り業者が桶を荷車に乗せて運ぶ写真もあった。きっと、捕虜となったドイツ兵達は思ったことだろう。「なんで、俺たちはこんな貧乏な国の軍隊に負けたのだろうか・・・」と。
この貧乏な国の軍隊で思い出したが、私の父は昭和25年(1950)創設の警察予備隊員だった。広島県海田町の宿舎はオーストラリア軍の駐屯施設を流用してのものだった。快適な居住空間だったが、便所は洋式でこれには苦労したとノートに記していた。訓練はアメリカ軍下士官の指揮だったが、点呼では満足に数を数えられない。「なんで、こんな馬鹿な下士官のいる国の軍隊に負けたのか」と隊員皆でぼやいたという。
更に、この「軍都久留米」で記憶にあるのが、陸上自衛隊幹部候補生学校に入校した伯父のこと。この伯父、旧海軍のたたき上げの下士官だった。軍組織の裏表、要領、人間心理も熟知した人だった。この伯父の幹部候補生学校時の同期には1964年東京オリンピック・マラソン銅メダルの円谷幸吉がいた。
「オリンピックのメダリストちゅうて、日本中の人気者やから、逆に誰も寄りつかんで、いつも、学校じゃ一人ぼっちで、可哀想じゃった」。後年、自殺した円谷について伯父は語っていた。
幹部候補生学校では「記録会」といって、学校から標高312・3メートルの高良山(こうらさん)までの往復マラソンがあった。この話になると伯父が笑い話をする。
「オレがやっとの思いで校門を潜ったら、円谷は風呂も飯も全部、済ませちょった」。
なんと、伯父と円谷幸吉は破られない記録を残していたのだ。最速の円谷、最遅の伯父である。伯父は見事な太鼓腹だった。海軍では相撲と柔道の代表だったそうだが、走ることにかけては、想像するだけでも気の毒としか言い様がない。
それはさておき、収容所のドイツ将兵たちは思ったことだろう。「二度と臭い便所の収容所には来るめぇ(久留米)」と。














