71.「小島直記の名前を見た喜び」
6月13日(土)の午後、「福岡龍馬会」の懇親会に参加した。なぜ、福岡龍馬会にと思われるかもしれないが、今年の3月21日(土)の夕刻、福岡龍馬会で講演をしたのが縁だった。
懇親会場は「日本料理てら岡」(福岡市博多区中洲)だった。と言っても、私には初めての店で、出てきた料理に夢中で、骨も食べられますという「ぶり大根」に小さな驚きを感じたのだった。懇親会では新旧役員の交代などの発表があり、「てら岡」の寺岡直彦会長の講話が30分ほどあった。コロナ渦、飲食業界は大変な苦労をされたが、その実情を淡々と語られる。この講話の前に資料として寺岡会長の履歴などが配られた。そこには稲盛和夫主催の「盛和塾」のことなどが記されていた。しかし、私の関心はそこではなく、小島直記の伝記に学んだという箇所に目が留まった。
小島直記は福岡県八女市出身。東京帝国大学から海軍経理学校に進んだ。小島はあの世界的タイヤメーカー、ブリヂストンの広報にもいたが、小島が書いた石橋正二郎の評伝『創業者 石橋正二郎』は優れた一冊だ。その小島は経営者向けのエッセイも多く遺しているが、その一つを書評で紹介したい。
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『回り道を選んだ男たち』小島直記著、新潮文庫
・1日1話で、じっくりと読み進みたい人物
評
今年(令和2年、2020)は、三島由紀夫、森田必勝が自決して50年の節目の年になる。この三島の自決後、追い腹を切った男がいる。それが村上一郎という作家だが、あの三島事件の際、市ヶ谷に駆け付け、「俺は、海軍主計大尉だ!開けろ!」と絶叫した。その村上と海軍経理学校での戦友が著者の小島直記だ。本書の296ページから304ページにかけ、村上を含めての海軍時代の戦友の履歴が紹介されている。本書を手にしたきっかけは、この村上一郎の事を少しでも知りたいという欲求からだった。
本書は「明治人の気骨」、「書物の深淵」、「人生紀行」の章からなり、人物譚が58話にまとめられている。「人物評とは、小さな事実の集積と取捨選択とによって出来上がる」といわれる。それぞれの人物の生きざまが興味深く、考えさせられる。同時に、著者が論語の裏付けを身体に染みこませた人であると分かる。故に、本書では「明治人の気骨」での人物譚がより一層生きてくる。
127ページの「兆民塾」の一文には、「右翼」とも「テロリスト集団」とも評される玄洋社の事が出てくる。大隈重信に爆裂弾を投じた来島恒喜が中江兆民の門下生であることを知る人は少ない。同じく、「右翼の源流」とも呼ばれる頭山満が、「左翼の源流」である中江兆民と昵懇の仲であることも。日本の敗戦後、右翼と左翼は対立するものと刷り込まれてきたが、「極めれば、右も左も紙一重」という真実をどこかに置き忘れてきたからだ。
「電力の鬼」とも称された松永安左衛門は、プロカメラマンが撮影した一瞬の姿で評される。しかし、それはファインダーという管見であって、写真を見た者が勝手に松永の面相からイメージを膨らませ、「鬼」と思っているに過ぎない。そんな松永に対する誤解を解いてくれる書でもある。極めつけは、森銑三の名著『史伝閑話』の存在を思い出させてくれたことだった。
まだまだ、知らぬことは多い。もっと学べ、もっと読め。そう示唆してくれた書であり、一日一話、静かに読み込む時間を持ちたいと思わせてくれる書である。(終)
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この書評の冒頭に村上一郎のことを記しているが、村上は昭和50年(1975)3月29日に愛刀で自決した。村上は自決前、小島の自宅を訪ねたが、不在だった。互いに無念だったと思う。
この村上については、以前、三島由紀夫が結成した「楯の会」の会員であった方から話を聞く機会があった。三島事件後、陸自の正門前を機動隊が封鎖している。そこに突入を試みたのが村上だった。それだけに、この村上一郎という作家の名前が強く記憶に刷り込まれた。
そして、その村上の名前を渡辺京二の著作で見つけた。渡辺が村上のところに原稿を取りに行った際、「僕は九州の人間は信用しません」と言い放たれたのだ。渡辺は九州熊本を基盤に執筆した人だが、もとは満洲大連からの引き揚げ者だ。「九州」という意識は皆無に等しかったのではと思える。なぜ、村上は不明瞭な一言を渡辺に浴びせたのか謎のままだ。
渡辺京二は令和4年(2022)12月25日に亡くなった。直前まで、旺盛な執筆姿勢を崩さなかったと聞き及んでいる。その渡辺は平成29年(2017)に刊行された村上の『幕末』(中公文庫)の「解説」を書いている。その中にも村上との思い出を綴っているが、複雑な気分だったことだろう。村上が、なぜ、渡辺に「九州の人間は信用しません」と言い切ったのか、今も不明だが、九州というより「お前が嫌いだ」と直接的に言えなかったからなのではと推測する。なぜならば、自決の直前に暇乞いで訪ねた小島は九州の出身だからだ。海軍での戦友であれば、小島も村上も出身地は互いに熟知していたはずだ。さらに、村上のところに出入りした人物に岡田哲也氏(鹿児島在住の詩人)がいる。岡田氏は九州も九州、鹿児島の方だ。こうなると、ますます、村上一郎の心理は不可解。それこそ、頭山満と中江兆民が昵懇の仲と言ってもにわかに信じがたいのと似たものがある。
信じがたいといえば、玄洋社と大隈重信の関係も不可解だ。玄洋社の来島恒喜は大隈に爆裂弾を投じて大隈は右足を失い、来島は自決。これだけでも終生の敵対関係と思うのが普通だ。しかし、大隈は初代玄洋社社長平岡浩太郎の悼辞を詠み、平岡の墓所前に鎮座する顕彰碑には「平岡先生」との大隈の手跡が刻まれる。
これら理解不能の人間関係を小島であればなんと言うのだろうか。「そげんこじん(小島)まり考えんでん、よかろうもん」とでも言い放つのだろうか。














