目 次(浦辺登投稿)
⑨「玄洋社社長・平岡浩太郎の悼辞を読んだ大隈重信」『維新と興亜』9月号掲載
⑧「老農 塚田喜太郎のこと」2023年6月19日
⑦「幕末史における水戸学、国学の隆盛から」2023年6月4日
⑥「幕末史の思想の変遷について」2023年6月3日
⑤「なぜ、大久保利通は評価しづらいのか」2022年7月23日
④「福岡県議会傍聴記」2022年3月6日 転載文③「『名詞』も日本語です」2022年1月26日 転載文②「歴史認識の相違はどこから」2022年1月25日 転載文①「日本の旧植民地台湾と朝鮮の意識の相違」2022年1月24日 転載文
⑧「老農 塚田喜太郎のこと 」2023年6月20日
現代日本において、塚田喜太郎(文政3~明治23、1820~1890)の名を知る人はごく僅か。一介の農夫が歴史に名を刻むなど稀なことだが、名を遺した。喜太郎は現在の鹿児島市武町、中山町における新田開発、大隅半島肝付での開墾に成功。沼や池を埋め、灌漑、土壌改良を成し遂げた。その手腕を乞われ、明治13年(1880)、現在の福島県郡山市の安積開拓地に招かれた。招聘したのは奈良原繁。奈良原といえば、文久2年(1862)の寺田屋事件で、君命を受け、有馬新七らの決起を抑えた人として知られる。
齢60を過ぎた喜太郎が招かれた安積開拓地には、九州久留米の士族たちが入植していた。いわゆる、士族授産として刀を鍬に握り替えての武士の農法だった。喜太郎を招いた奈良原には一つの禍根があった。久留米の入植者たちは、寺田屋事件に関わった真木和泉守を領袖とする久留米勤皇党の残滓でもあったからだ。奈良原の上司ともいうべき人は大久保利通。大久保も文久2年に真木と福岡筑後の羽犬塚で日本の行く末を討議した仲だった。さらに、真木の主君であった久留米藩主・有馬頼永の正室は島津斉宣の娘・晴姫だった。薩摩と久留米の、切るに切れない複雑な事情があったのだ。
しかし、喜太郎にとって、そんな武士の義理など関係ない。薩摩で蓄えた自身の農業技術を新天地で試したい。面白い!そんな躍動感に駆られたに違いない。お天道様の下、広大な大地が相手の農業においては、武士の論理、自尊心など何の役にも立たない。天地の間に生きる人はすべからく同じ。そして、「生きることは食べること。食べることは生きること」。百の言葉より実際の行動をもって、喜太郎の思いは見事、新天地の安積開拓地で結実した。けれども、明治23年(1890)2月21日、故郷鹿児島の方に向けてくれとの言葉を遺し喜太郎は病没。見事、福島県郡山に骨を埋めたのだった。
同じ日本でも東北地方は貧しかった。冷害、日照り、大地震、大津波で東北の民はバタバタ倒れていく。この時、近代農法を確立しなければ永久に東北の民は救われないとして岩手県盛岡に赴いた薩摩の男がいた。玉利喜造(安政3~昭和6、1856~1931)だ。明治8年(1875)、風雲急を告げる鹿児島において、西郷隆盛に世界情勢を説いた。「おはんは、学問でこん国を立て直しもんせ」との西郷の声に押し出され、玉利喜造は上京、アメリカ留学も果たした。農科大学教授(現在の東京大学農学部)の職を辞し、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)の初代校長に着任。東北に近代農業の礎を築いた。その卒業生には「雨ニモ負ケズ」の詩人、花巻農学校教師であった宮沢賢治がいる。
西郷は農本主義者と称えられる。農本主義とは「農は国の本なり」という思想だ。まず、民の安寧の初めは食べること。人の生命を支える農業は国の根幹を支えることに繋がる。西郷、大久保、奈良原らは、世の安寧のため農業で人の生命を救いたかった。その最前線で黙々と老農・塚田喜太郎は農業技術を伝授し、日本の民を支えた。故に、この老農・塚田喜太郎の功績を称えることは、西郷、大久保、奈良原らの願いを伝えることにも繋がるのだ。
⑦「幕末史における水戸学、国学の隆盛から」2023年6月4日
幕末史において、水戸学が全国の志士に広まった。これは、水戸藩の水戸光圀(1628~1701)が中国の司馬遷(紀元前145年頃生、前漢時代の歴史家)の『史記』に倣って『大日本史』の編纂事業を始めたことに起源がある。日本各地に残る歴史書を取り寄せ、日本の歴史を編纂したもの。この編纂事業の最中、大陸では清(満洲族)が明(漢民族)を倒したことから朱舜水(1600~82)という明の儒学者が日本(長崎)に亡命。水戸光圀はこの朱舜水を招聘し、編纂事業にあたらせた。これが学問としての「水戸学」(天保学とも)の源流となり、『大日本史』は「倫理道徳の書」と見られる。「歴史の事実をありのままに述べれば勧善懲悪の意義は自ずから現れ。政治が興隆しているか否かは歴史を直視すれば火を見るより明らかだ」とする。
この時、朱舜水が絶賛したのが南朝(後醍醐天皇を祖)の忠臣・楠木正成(1294~1336)だった。この楠木正成を絶賛する漢詩が広まり、志士たちのナショナリズムが高まる。そこに膨大な量の『大日本史』を読み込んだ頼山陽(漢詩人、1781~1832)が『日本外史』としてダイジェスト版を編纂し、ベストセラーになった。ここから、幕府の封建的身分制度を倒し、天皇親政、一君万民の国に変革しなければとの考えが強まる。特に、嘉永6年(1853)のペリー来航は刺激となった。
幕末、貨幣経済が浸透していった社会において、商人階級は潤沢な資金力を保持していた。貧困に喘ぐ武士階級の株(石高という配当)を買い、武士となった。代表的な人に勝海舟(1823~99)、榎本武揚(1836~1908)などがいる。
儒学、水戸学とも相まって、日本の万葉集などを極めることで日本人としての感性から日本の在り方を説く人が増えた。一般に国学といわれるものだが、代表的な志士に平野國臣(1828~64)がいる。幕末の世相から国学の影響を知るには島崎藤村(1872~1943)の『夜明け前』が参考になる。
蛇足ながら、仏教は封建的身分制度の江戸時代、「五人組」と呼ばれるように体制側に組み込まれていた。「若党」と呼ばれる武士階級で継ぐ家を持たない者を収容する機関でもあった。この影響もあり、思想というよりも制度の上から明治期の廃仏毀釈運動の標的になった。
明治期、敗者となった旧幕府側に新しい反体制意識としてキリスト教が勃興した。さらに、大正、昭和になると貧窮問題の解決として社会主義の考えが広まった。
そして、昭和20年(1945)8月以降、「民主主義」という新しい西洋の手法が導入され、日本の古くからの慣習と摩擦を起こしながら現代に至っている。
⑥「幕末史の思想の変遷について 1」
孔子(紀元前552頃の生まれ)は儒家(儒学)の代表として語られる。この儒家のほか、法家、道家など、様々な思想形態が中国にはあった。「百家争鳴」とは、様々な思想家が自身の考えを戦わせたことから誕生した言葉。
しかし、中国の皇帝は儒家のみを国の教えとし、他の思想家は抹殺してしまった。「歴史は勝者によって作られる。思想は為政者によって焚書される」の言葉通り。後に、この儒家の思想も朱子(1130年頃の生まれ、朱熹とも)による朱子学(宋学とも)という一派が形成される。この朱子学の基本は「親と子」「君と臣」の関係など、秩序の在り方を重要視し、忠節を重んじる。これは、支配者と被支配者の関係からいえば、支配者にとって都合の良い考えだった。ここで、徳川幕府は封建的身分制度(門閥制度)の維持のために朱子学を尊重した。
翻って、幕末に下級武士に尊重されたのが陽明学だった。これは王陽明(1472年頃の生まれ)が説いた考えだが、代表的な言葉として「知行合一」がある。知識や物事の理屈を理解した以上、行動に移さなければならないとする。このことは、江戸時代末期、弛緩した封建的身分制度を変革させる思想でもあった。故に、陽明学は「革命の思想」とも呼ばれた。
・朱子学=保守=仁(愛)と対立
・陽明学=革新=仁(愛)を尊重
江戸時代末期、高杉晋作が上海に行って漢文の聖書を読んだ際、「これは、陽明学ではないか!」と言ったのは有名な話。聖書の「愛」と陽明学の「仁」が同じだったからだ。
ちなみに、中国古典において、民衆のことを「牧民」と表現する。家畜と同じ民衆を統治する愚民政治は聖人のやり方であると教えていたからだ。このことは「知は両刃の剣」と呼ばれていたことにつながる。民衆の各人が賢くなりすぎると、国が治まらなくなるからだ。
中国には「墨子」という考えもあるが、これは「兼愛思想」と言われ、キリスト登場以前にあった考え。ロシアのトルストイは「キリストの出現によって墨子の考えを広めることができた」とまで言い切った。
更に「韓非子」という思想もあり、これは儒学の性善説に対し性悪説を基本にしている。ゆえに、法の規制によって民衆を統治しなければならないともいう。加えて、経世済民という観点から、計画経済、実学に近い考えをも示す。大久保利通は中央集権、富国強兵の策として「韓非子」をテキストにしたともいわれる。
④「福岡県議会傍聴記」 浦辺 登
令和4年(2022)3月3日(木)の午後、福岡県議会を一般傍聴。月例で開催している「人参畑塾」(地域の歴史文化の勉強会)のメンバー5名で参加した。今回、原中まさし県議会議員が「本県の歴史的認識と今後の広報について」として一般質問をされるので、これを聞き逃すわけにはいかない。とはいえ、新型コロナウイルスの蔓延防止期間中だけに、傍聴席は厳しく人数制限をされていた。しかし、傍聴券を入手できたのは幸いだった。
原中まさし県会議員の質問趣旨は、
- 2026年の福岡県発足150周年事業について
- 公立学校での近現代史教育の取り組みについて
- 旧福岡県公会堂の活用、特に中国革命の孫文が演説をしたことにからんで
- 福岡県が管理する西公園(福岡市中央区)などの歴史資源としての活用について
まず、原中県議によって廃藩置県後の福岡県の近代史を具体的に説明。さらに、中国革命の孫文(国父、革命の父)が、日本人、特に九州人と非常に近い関係にある。玄洋社の頭山満、平岡浩太郎らが孫文を強く支援していた。福岡県の財界人も支援していたと説明。議場の議員の方々も、興味深く原中県議の質問に興味深く耳を傾けていたのは傍聴する側としても壮観だった。
この質疑に対し、服部県知事、吉田教育長から回答があった。
なかでも、西公園の整備について、服部知事から加藤司書(福岡藩家老、筑前勤皇党領袖)、平野國臣に関係する公園だけに、その整備に対して前向きな回答があった。蛇足ながら、中国革命の孫文は、西公園にも立ち寄っており、このことも回答して欲しかったなあと思った・・・が、これは少々、マニアックか・・・。
とはいえ、県議会の傍聴などということは初めてのことだっただけに、実に興味深い体験だった。傍聴に際し、写真撮影、携帯電話の電源を切るのは当然だが、コート、帽子の着用不可。(多分、銃刀類を隠し持っていないかの証明のためか?)拍手や発声、パフォーマンスは禁止行為。
県知事の記者会見の際などは手話通訳者がいるが、県議会の議場においても必要に応じて手話通訳者は配置されるのか? 車椅子用の傍聴場所は用意されているが、弱視の方の為に、スクリーンがあっても良いのでは?などと傍聴しながら思った。
今回、初の県議会傍聴だったが、選挙の時だけではなく、県民も議会を傍聴するのは良い事ではと考えた。
令和4年(2022)3月6日
(「浦辺登公式サイト」から転載)
③「『名詞』も日本語です」 浦辺 登
日常的に使用している「ひらがな」の源流は漢字。「あ」は安、「い」は以、「う」は宇、「え」は衣、「お」は於。これは、漢字の書体の一つである楷書から、行書、草書となって生まれた。
楷 書:角張った印象があるが、正しく書いた漢字
行 書:楷書の文字を少し崩した漢字
草 書:行書の文字をさらに崩した漢字
ひらがな:草書の崩しようがない最終形
ゆえに、漢字の最下流が「ひらがな」になる。
今、中国(中華人民共和国)では、日本の「ひらがな」の「の」を商品名に加えることが流行している。「〇〇の〇」などだが、〇の箇所に中国の簡体文字が入る。ちなみに「の」の楷書は乃になる。要は簡体文字も源流は漢字だけに、商品名に漢字の変化形である日本の「ひらがな」が入ることにデザインとしての文字の面白さを感じる。ところが、中国のナショナリズムが反発を示すという。
この話題を読みながら思い出したのは、清朝(満洲族政権の中国)末期の話。明治28年(1895)の日清戦争講和後、日本に留学する清国人が多かった。小国日本が大国清を撃ち破った要因は、日本が洋学(欧米の学問)を取り入れたからと分析。その秘密を探るべく、清国は大量の留学生を日本に送り込んだ。
そして、帰国した清国人留学生は清国政府の新進気鋭の官僚となる。官僚組織では、日本語の単語が役所で飛び交う。日本の知識に感化され、母国を見失うのではと心配する官僚トップが留学組に命令する。
「日本語の名詞を多用するのは、まかりならん」
すかざず、留学組が反論する。「今、口にされた『名詞』という単語も日本語ですけど・・・」
反発を示す中国人には「歴史に学べ」と伝えたい。知らないうちに中国社会に浸透し使用されている日本語は多い。「ひらがな」の「の」の一文字で日本への対抗心を露にするよりも、簡体文字の誕生秘話でも探ってみたらどうだろうか。
尚、『名詞』という日本語の文法用語だが、江戸時代のオランダ通詞である志筑忠雄がオランダ語から翻訳したものである。
令和4年(2022)1月26日
(「浦辺登公式サイト」から転載)
②「歴史認識の相違はどこから」 浦辺 登
日本の歴史教科書において明治27年(1894)の日清戦争、明治37年(1904)の日露戦争は「侵略」戦争であると教える。この根源は昭和47年(1972)9月の日本と中華人民共和国(中国)との国交樹立の時に始まる。当時の中国の周恩来首相が「半世紀にわたる日本軍国主義者の中国侵略の始まり」として日清戦争(甲午中日戦争)を取り上げたからだ。周恩来首相からすれば、「半世紀」、五十年という「侵略」の長期間を強調したいとの外交的意図(外交交渉で優位に立ちたい)が見える。
しかし、近代中国(中華民国)を建国した国父の孫文は、この日清戦争について日本批判を行っていない。むしろ、日本が「革命戦争」を我々の代わりに戦ってくれたと述べる。そもそも、この中国との戦争でありながら「日清戦争」と呼称する由来は、清国(満洲族政権)との戦争だからだ。1644年から1911年までの260年余、漢民族は満洲族の植民地支配下にあった。ゆえに、漢民族の孫文とすれば。日清戦争は日本が漢民族の革命戦争(政権樹立)を代わりにやってくれたと見ているのだ。
さらに、日本とすれば、清国と結んだ不平等条約改正の戦(いくさ)が日清戦争でもあった。日本史年表には記載されないが、明治17年(1884)、明治19年(1886)の二度に渡り、長崎で清国水兵と日本の警察とがもめた。特に、明治19年の衝突では、多くのけが人、死傷者を出す市街戦を展開している。とはいえ、治外法権下の日本は清国水兵を逮捕、投獄することはできない。当時、この不平等条約改正問題は清国に限ったことではなかったが、大国として武力を誇示する清国は日本にとって脅威だった。
周恩来首相の外交交渉での演説であったかもしれないが、史実の確認もせずに「侵略」戦争として受け入れる。なんと、情けない日本だろうか。国父の孫文と周恩来首相の主張の相違は歴史認識の相違につながる。早急にこの歴史の不平等を解消すべきと考える。
令和4年(2022)1月25日
(「浦辺登公式サイト」から転載)
①「日本の旧植民地台湾と朝鮮の意識の相違」 浦辺 登
大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)後、かつて日本の植民地であった台湾は中華民国が統治し、朝鮮は北朝鮮と韓国とで分割統治することとなった。その旧植民地である台湾と韓国との日本に対する接し方が異なると言われる。簡単に言えば、「親日の台湾」「反日の韓国」である。この相違の原因はどこにあるのか。
一、島の台湾と半島の韓国
二、民政の台湾と軍政の韓国
三、交際の短い台湾と交際の永い韓国
台湾は、清国(満洲族政権の中国)から「化外(けがい)の地」と呼ばれていた。化外とは、清国皇帝の徳が及ばない未開の地という意味。反して、朝鮮は清国の属国であり、支配下にあった。良く言えば、清国皇帝の影響力が及ぶ地域。
台湾が日本領に組み込まれた後、児玉源太郎が総督になった。しかし、実際の治政は後藤新平という医者が民政長官として行った。アヘン撲滅、衛生環境整備、インフラ整備に注力した。アフガニスタンで銃弾に倒れた中村哲医師が現地で尊敬の対象であったように、衛生環境の整備は地元民に喜ばれる。しかし、併合後の朝鮮では、同じ軍人が総督でも、施政官は陸軍の憲兵司令官。徹底した言論弾圧、統制だった。国境を接するロシア、清国の扇動者を排除する目的があったからだが、統治下の民は息苦しく、反発を覚える。
歴史的に台湾と日本とは、間接的な交易関係。反して、朝鮮とは直接的な関係が永かった。ゆえに、相互に、先入観、固定観念が邪魔をする。百済(くだら)からの亡命者の受け入れ、元寇、秀吉の朝鮮征伐などもあった。ここに、人間(動物)としての感情の行き違いが生じる。
これらを踏まえ、日本と台湾、日本と韓国との関係を見ていくと、「同じ植民地」として論ずることがいかに不毛であることか。親日の台湾、反日の韓国という図式が永遠に続くとも思われない。台湾と韓国との外交をいかに考えるかが重要になってくる。
更に、なぜ、陸軍軍人の明石元二郎が台湾総督として敬慕されるように至ったのか。これはもう、「歴史に学ぶ」しかない。
令和4年(2022)1月24日
(「浦辺登公式サイト」から転載)