77.「二百年前のラブレター」
7月18日(土)の午後、立石ガクブチ店(福岡市博多区大博町)店主の立石武泰氏の講演を拝聴した。「博多の町は立体博物館」というタイトルだが、博多の町が博物館?とは、いったい何だろう?と思われるかもしれない。
そこで、少々、解説をすると博多の町には名所旧跡が多々ある。しかし、関心が無いのか、予算が無いのか、看板や石碑などの史跡案内が極度に少ない。行政に申請をするにも手間がかかる。予算が付いたとしても制約が多い。博多には「博多にわか」という言葉遊びの伝統芸能があるにも関わらず、行政が設置するものには「遊び心」は許されない。そこで、立石武泰氏は民の力で看板設置を考えた。もともと、博多は大阪の堺と並ぶ商人の町である。民の力として町中に立っている電信柱に看板を取り付けるというアイディアを実行に移した。
そんな博多の町に取り付けられた電柱看板の画像を皆さんに見てもらいながら立石氏の笑いを取りながらの歴史解説だった。
私が個人的に面白いと笑ったのは、亀井少琹(かめいしょうきん)という女性のラブレターの解説だった。
そこで、亀井少琹とは誰?何者?と思われるので、亀井少琹の墓参をした時のことを一文にまとめているので、それを参照していただきたい。
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亀井少琹の墓を訪ねて
九州は男尊女卑と言われる。しかし、そう見るのは間違いだ。とりわけ、筑前福岡藩(現在の福岡県)には、書画詩文に優れた亀井少琹、男装の漢詩人原采蘋(はらさいひん)、勤皇志士の母・野村望東尼(のむらぼうとうに)、そして、玄洋社生みの親ともいわれる男装の女医・高場乱(たかばおさむ)がいる。いずれも才女だが、今回、これらのなかから、亀井少琹をご紹介したい。
亀井少琹(幼名は友)は寛政10年(1798)2月19日、福岡の唐人町(現在の福岡市中央区)に生まれた。父は亀井昭陽、祖父は亀井南冥という著名な儒医(儒者であり医者)の家に生まれた。特に祖父の亀井南冥は福岡藩校甘棠館(かんとうかん)の館主であり、自由闊達な学問の師として福岡藩内外から評判が高かった。更に、亀井昭陽も学者としての名声が高く、そんな家庭環境もあってか、少琹は幼少から聡明であり、書画詩文に優れた才女として知られた。
「亀井友(少琹)空石(昭陽)の女(むすめ)にして雷首(三苫源吾)の妻たり、今宿(福岡市西区)に住す、扶桑第一(日本一)梅の詩を以て世に知られる、詩文書画に巧みなり、好んで四君子(蘭、菊、梅、竹のこと、気品があるので君子にたとえる)を書く、頗る奇韻(独特の風流)あり、采蘋(原采蘋)と並び称せられる」(『筑前人物志』より)
亀井少琹は文化13年(1816)12月3日、父・昭陽の弟子であった三苫源吾と結婚し、別家を建て、今宿で医業と家塾を開く夫の亀井雷首(養子となった三苫源吾のこと)を補佐する。亀井南冥、昭陽父子の弟子である廣瀬淡窓(豊後日田の咸宜園を開いた)、『日本外史』を著し漢詩人として著名な頼山陽も称賛する女性が亀井少琹だった。
安政4年(1857)7月6日、60歳にして没したが、求められて描いた書画は今も人気が高い。
豊後日田の咸宜園には日本全国から秀才が集ったが、その原点ともいうべき学問所が亀井南冥、昭陽の亀井塾だった。その塾を陰で支えていたのが亀井少琹である。今、少琹は浄満寺(福岡市中央区地行2―3―3)の亀井一族の墓所(福岡県文化財指定)に眠っている。 (終)
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亀井少琹はあの国宝金印(漢委奴国王)の解説書を著した亀井南冥の孫娘だが、今に伝わる艶詩が遺されている。夫となる亀井雷首(三苫源吾)との間で交わされたラブレターがそれになるが、「博多にわか」も顔負けの捧腹絶倒の逸話である。
まず、三笘源吾から亀井少琹に贈った恋文からして笑える。
「君に王上の点なくんば、われ出頭の天とならん」である。
「王上の点」だが、「王」の漢字の上に「点」がつけば「主」となる。「出頭の天」とは、「天」の上に頭が出れば「夫」という文字になる。つまり、主上(婚約者)がいないのならば、われ(私)は(あなたの)夫になりたい。そういう言葉(文字)遊びにかけたラブレターだったのだ。
これに対し、
「九州第一の梅 今夜君が為に開く花の真意を知らんと欲せば 三更の月を踏んで来たれ」
と、亀井少琹は返書した。「三更の月」とは、深夜の意味だが、三笘源吾の求愛に対し「オッケー!」とストレートの書を返したのである。「少琹艶詩」とも呼ばれるが、これが二百年前の文人の恋文なのである。
しかし、まさか、このラブレターが電柱看板となって町ゆく人の視線にさらされるとは、ご両人も想像もできなかったに違いない。
こんなご両人の結果はいかに。そこで私は両人の住居があった福岡市西区今宿を訪ねた。(ストーカーか?)
目標は旧唐津街道に面した二宮神社だ。この二宮神社は、福岡県糸島市にある櫻井神社とともに、ボーカル・グループ嵐にちなんで嵐ファンが訪れる神社ともいう。小さな村の鎮守程度だが、全てを知りたいというファン心理が後押しするのだろう。神社は旧街道に面して鳥居があり、10メートルほどの距離の細い参道を進むと、拝殿が鎮座している。その参道左手に亀井少琹の旧居跡を示す看板があった。神社境内を抜けると今津湾に面した浜辺。視界には能古島、志賀島、糸島半島である。船を使えば、島々との往来は容易。江戸時代の人々にとって船は日常の交通機関だった。
尚、二宮神社の参道脇に「亀井」という表札の家があった。家名は亀井か・・・などとバカなことを思いながらピンポンと鳴らして確認したかった。けれども、不審者と間違われそうなのでやめた。後日、そこは亀井少琹の子孫の住む家と知人が教えてくれた。やはり、鳴らすべきだったか。
それにしても、この三笘源吾の問いかけに亀井少琹の返書は「会いに来い」とストレート。ここにも、愛(会い)に恋(来い)とかけているのだろうか。














