87.「久方ぶりの大阪を歩いてオッペケペー!」
9月15日の午後、大阪・岸和田市の岸和田健老大学の招きで講演を行った。岸和田といえば全国的に「岸和田だんじり祭」で有名だが、訪れた日は祭の準備中で、市中に興奮を感じるものだった。講演前日は大阪・堺市に前泊していた。大学時代の友人が堺に住んでいて、久しぶりに会おうとなったからだ。
私は今から30年以上も前、大阪・吹田に5年ほど住んでいたので、土地勘はある。久しぶりだなぁ・・・で、新大阪駅に降り立ったが、暑い!なんじゃ、この暑さ。湿度の高い大阪独特の熱気に歓迎された。まあ、それにしても、インバウンドの多いこと、多いこと。地下鉄御堂筋線も、南海電鉄「なんば駅」からの電車もインバウンドだらけ。車窓からの風景を眺めながら、昔の記憶と現実とを擦り合わせながら、インバウンドの国籍などを確認していた。
南海電鉄「堺駅」に到着。チェックインまで時間があるのでホテルに荷物を預けたが、受付は日本語を話す東南アジア系の人だった。ここは日本か?
友人との待ち合わせ時間があるので、森鷗外の短編小説「堺事件」の現場を歩く。明治の初期、堺の港を守護する土佐藩士とフランス水兵との騒乱事件が「堺事件」だが、フランス側に死傷者が出たことから謝罪を求められた日本政府。賠償金と土佐藩士20人の切腹で決着した。その切腹現場が堺市の日蓮宗妙国寺である。切腹時、土佐藩士が躊躇なく死に臨むので、検視(死)役のフランス人が恐れをなした。以降はネタバレになるので、小説の一読をお願いします。
その後、ホテルにチェックインすると、なんと、側に「堺事件」の現場を示す石碑がある。翌朝、その石碑を確認すると、その傍に「大和挙兵天誅組の変」での志士たちが上陸したことを示す石碑もあった。あの久留米水天宮の真木和泉守の門弟や筑前の吉田重蔵(田中重二郎)も「天誅組の変」に参加している。筑前、筑後(福岡県)との因縁に、感慨深いものがあった。
この「天誅組の変」での筑前、筑後との関係を次の書評で知っていただきたい。
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『天誅組の変』舟久保藍著、中公新書
・「天狗党の変」「禁門の変」にまで繋げて解説して欲しかった。
本書は武力による倒幕維新の魁として注目される「天誅組の変」についての研究書だ。前章、終章を加え全6章、210頁余で構成されている。本書の狙いは文久2年(1862)の「伏見挙兵」、翌年の「天誅組の変」、「生野の変」が一連の事件として繋がっていることを証明するものだ。その中心人物として平野國臣を置いている。
この平野國臣が活躍した時代の福岡藩主は黒田斉溥(長溥)だが、薩摩島津家からの養嗣子だ。父は蘭癖大名として名高い島津重豪であり、名君の誉高い島津斉彬とは2歳違い。江戸の薩摩藩邸では斉溥・斉彬は兄弟のようにして育てられた。この島津斉彬が藩主就任前に起きた事件がいわゆる「お由羅騒動」だが、この時、4人の薩摩藩士が福岡藩に亡命してきた。黒田斉溥としても、斉彬派の者であるならばと庇護下に置いた。その亡命者の一人が北条右門(木村仲之丞)であり、平野國臣に時勢を説いた人だった。入国が難しい薩摩に平野が入国できたのも、この平田篤胤派の北条右門の存在があったからだが、この北条右門の妻女は福岡藩の吉永源八郎の養女である。更に、亡命者の一人である葛城彦一は海を介して馬関(下関)の白石正一郎ともつながっていた。
こういった縦横の人間関係に加え、久留米・水天宮の真木和泉守と平野とが結びついていれば、伏見(寺田屋)挙兵、天誅組の変、生野の変が連鎖反応を起こすのは自然の理である。ただ、ここで、なぜ、天誅組の変に真木和泉守の門下生が参画しているかだが、これは、後醍醐天皇を祖とする南朝の残滓が強く関係している。真木が南朝の忠臣・楠木正成を崇拝していたのは有名な話だが、天誅組の変が起きた奈良の吉野も南朝の故地だ。懐良親王の墓所、良成親王の陵墓がある福岡県八女市と吉野町は姉妹都市の関係である。吉野町の地形と八女市の地形が酷似していることに驚きを覚えるが、年初、良成親王は吉野の方角に向けて遥拝していたという。
そういった事情のもとに本書を読み進んでいったが、いかに「天誅組の変」における挙兵に大きな意味が含まれていたが理解できた。加えて、先人たちの苦難の足跡にも、哀惜の情を覚えずにはいられなかった。波状的に挙兵が起きたことで、徳川幕府の屋台骨を揺るがせ、最終的には維新に至ったことを思えば、「伏見挙兵」「天誅組の変」「生野の変」を繋げるという展開は当然、あってしかるべきものだった。
終章210頁に平野國臣が宮内庁に献納したという『回天管見策』だが、平成26年(2014)に平野の遺族関係者から、「献納させられた」との報告がなされている。平野の弟である平山能忍は政府の官吏であったことから、献納という形式を選択せざるを得なかったのだろう。「思想は為政者によって焚書される」というが、なんとも胸の痛む話だ。
できれば、伏見挙兵に関わった真木和泉守だけに、「天狗党の変」「禁門の変」にまで繋げて解説して欲しかった。 (終)
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ただ、ここで、なぜ、天誅組は京都から淀川を下り、大阪湾に出て、堺港に上陸し、山を越えて大和の吉野に入ったのだろうかという疑問が湧きおこる。
ここで吉野ということから考えると、『古事記』に出てくるように、大海人皇子(おおあまのみこ)が皇太子の地位を捨て、出家のために吉野山に籠った伝説にちなんでいるのではと考えた。大海人皇子は天武天皇になるが、いわば、復活の聖地が吉野だったのではないだろうか。同じく、後醍醐天皇も吉野に籠って復活の時期を待っていたことを考えると、天誅組も吉野から挙兵し、天皇親政をと考えていたのではと想像する。
大阪滞在三日目、帰路の新幹線乗車前、時間があったので大阪市北区の真言宗太融寺に行った。ここは境内に自由民権運動の碑、国会開設期成同盟会の碑がある。碑の確認が先であり、雨だったので気付かなかったが、山門を出たすぐ前はラブホ街だった。昼の日中から、どこも営業中。
これも自由民権運動の成果なのか・・・。オッぺケペー!(by川上音二郎)














