② 湊川神社と九州人との関係(神戸市中央区多聞通)
神戸市にある湊川神社は大楠公こと楠木正成殉節の地に建てられた神社である。神社の歴史は意外と新しく創建は明治5年である。
大楠公が足利尊氏との戦に敗れ、湊川の地で殉節したのは1336年であるが、室町幕府を憚り、その殉節の地はそのままであったが、江戸時代初期に尼崎藩主となった青山幸利により、供養塔が立てられたという。その後、元禄時代の1692年に大日本史を編纂した黄門様こと水戸光圀により「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑が建立された。
以来、水戸学の普及により、大楠公は理想の勤皇家として崇敬されるようになり、幕末には勤王の志士達の精神的支柱として祭祀されるようになった。
2022年12月17日に湊川神社を訪ねた際、同社の岡村権禰宜からご案内いただく機会を得た。本殿、大楠公殉節地、大楠公の墓をめぐる中で、同地が九州人との縁が深かったという話を聞くことができた。内容は以下の通り。
・湊川の戦いで大楠公とともに殉節した中に肥後の菊池一族の菊池武吉がいて、ご祭神の一人となっていること
・福岡藩の儒学者貝原益軒が光圀公より前に私財を投じて墓碑を建立しようとしたものの、陪臣ごときが恐れ多いと思い直し断念したこと
・幕末の七卿落ちの際、平野國臣が七卿を伴ってお参りしたこと
・頭山満も崇敬して度々お参りを行っていたこと(岡村権禰宜から、福岡の西新の頭山満生誕の地近くに頭山満が11歳の時大楠公のようになりたいと願って植えたクスノキがあり、現在は公園になっていますよという話が出されたのには驚いた)
・大隈重信や江藤新平も燈籠の寄進を行っていること
・東郷平八郎が日露戦争後に戦艦三笠のマストを奉納したこと
菊池一族の末裔を誇りとしていた西郷南洲も京、江戸往復の途上で間違いなく墓参していたことであろう。
湊川の地がかつて九州の勤皇の志士の聖地であったことが理解できた日となった。