一般社団法人 もっと自分の町を知ろう

寄稿

「谷山神社をめぐる近代史の考察」2  今村太多志

陸軍皇道派って南朝支持派?

 谷山神社が建てられたのは昭和3年です。実はこの昭和一桁の時期、鹿児島では多くの石碑が建てられております。鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政が始まったのが1333年ですから、その600年後は1933年、昭和8年になります。1333年後の数年間で、南朝北朝共に名だたる武将が戦死しております。楠木正成1336年没・新田義貞1338年没、名和長利1336年没、千草忠顕1336年没、などです。彼らの没後600年ということになります。昭和史を見てみますと、昭和15年が紀元2600年にあたる紀元節でしたので、日本中で記念行事が開催されております。日本中に顕彰碑が建てられ、建設記念イベントが催され、昭和15年の紀元2600年、紀元節の機運を盛り上げることになっていたのでしょう。

 

 征西将軍宮懐良親王御所記念碑 大正十一年 御所ケ原城(鹿児島市) 松方正義

 楡井頼仲顕彰碑        昭和五年 弓張城(高山町) 東郷吉太郎

 矢上高純顕彰碑        昭和六年 矢上城(鹿児島市) 平田猛

 知覧忠世顕彰碑        昭和八年 亀甲城(知覧町) 佐多武彦

 楡井頼仲顕彰碑        昭和十年 松尾城(志布志町) 菊池武夫

 肝付兼重顕彰碑        昭和十年 日和城(高城町) 荒木貞夫

 足利義昭他顕彰碑       昭和十年 険刃城(串間市) 菊池武夫

 肝付兼重顕彰碑        昭和十二年 東福寺城(鹿児島市) 菊池武夫

 市来時家他顕彰碑       昭和十四年 鶴丸城(いちき串木野市) ?

 渋谷重基顕彰碑        昭和十七年 清色城(入来町) 大久保利武

 

 行末に記したのは揮毫した人物名です。「東郷吉太郎」というのは海軍軍人で東郷平八郎の甥です。「佐多武彦」は陸軍軍人で島津家の血筋の人物です。「菊池武夫」は陸軍軍人、熊本の菊池一族、男爵菊池武臣の息子で南朝支持の人物でしょう。予備役編入後貴族院議員となり、「逆賊」である「足利尊氏」を礼賛したということで、商工大臣を辞任に追い込んだりなどしている熱血漢です。「足利尊氏は逆賊である」というのは南朝の言い分です。「荒木貞夫」は陸軍皇道派の重鎮、犬養・斎藤内閣の陸軍大臣として有名な人物です。「大久保利武」は大久保利通の三男です。おそらく鹿児島以外の土地でも、紀元二千六百年を祈念するイベントは日本中で行われたのでしょう。

 鎌倉幕府滅亡の1333年は正慶二年・元弘三年です。年号が二つあります。この二年前(1331年)、後醍醐天皇の勢力と鎌倉幕府得宗家勢力との内乱を機に後醍醐天皇が元弘への改元を詔します。幕府や対立する持明院統は認めていないのですが、実質的に南北朝時代が始まっています。そして二年後の1333年に鎌倉幕府は滅亡します。この年から翌年の1334年の二年間建武の新政が行われました。建武の新政はなかなか上手くいかずに、その後も戦乱が続きます。南朝・北朝ともに、多くの武士がその数年後に戦死しています。従って、この1333年の数年後ぐらいの間に、名だたる南朝の武将が亡くなっております。従って600年後の1933年(昭和8年)頃に、「没後600年祭」顕彰碑などが建てられるというのは理解できるのですが、その事業にかかわっている人物が陸軍の皇道派の人々であること、なぜその事業に松方正義が(あるいは遺族が)かかわり、巨額というほどではないにせよ、神社建設や石碑建立の費用を出しているのか、気になるところでした。

「谷山神社をめぐる近代史の考察」1  今村太多志

※11月末の維新の源流を考える薩摩路ツアーを記念して、鹿児島の会員の今村氏がレポートを寄稿してくれました。8回に分けて掲載させていただきます。(事務局)

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1 松方正義が建てた谷山神社

私は一昨年来、谷山神社に興味をもっておりました。

 谷山神社は後醍醐天皇の第九皇子、懐良親王を御祭神とする神社です。当然その成り立ちからして、南北朝時代と大きな関りがあります。神社の駐車場の隅に、この神社の建設に松方正義が大きくかかわっていることを記した石碑が立っております。私はこの石碑を見たとき「あの明治の財政家の松方正義なのか?」と意外でした。松方正義と南北朝時代と一体何の関係があるのだ?と思ったのです。すると松方正義はこの谷山神社ばかりでなく、征西宮跡記念石碑の建設にも大きくかかわっています。明治24年~25年、明治29年~31年と二回も内閣総理大臣を経験した人物ですから財力もあり、小規模の神社や石碑の建立費ぐらい大した負担でもなかったのでしょうが、私は気になることが他にもありました。

 幕末から明治期、松方正義の実績を追ってみると二つの点にこだわっていることが分かります。それは「日本銀行の創設」と「金本位制」です。松方は、なぜこのような方針を持つに至ったのでしょうか?

 明治初期の日本で、最も大きな出来事は、廃藩置県でしょう。版籍奉還によって、武士の統治を朝廷に返しました。何しろ日本中の武士が失業したのですから、これは大変です。秩禄処分が行われ、一時金などが支給されたりしましたが、士族の苦労は尋常ではなかったでしょう。士族授産といって、新しい仕事を紹介されたりしました。福島県の安積原や栃木県の那須野原での開拓などが行われました。が、士族の苦労は募り、不満は高まっていきました。明治10年には薩摩で西南の役、明治7年には佐賀の乱、明治9年神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など不平士族の反乱が相次いだ。最大の内乱となった西南の役では、4,157万円の戦費が必要となり、第十五銀行の銀行券が発行された。これらは政府にとっても大きな負担であった。当時、新設された銀行からの銀行券、藩が発行する藩札、等が濫発された。これは不換紙幣であり、裏付けが無く、信用されにくかった。明治10年西南の役が終わった時には、不換紙幣の濫発により「悪性インフレ」が進行していました。明治11年までは、薩摩出身の大久保利通が政府の中心人物でしたが、11年紀尾井坂の変で暗殺されて以来、伊藤博文、大隈重信が政府の中心となっていきました。中でも財政政策に関しては大隈重信が中心でした。大隈は積極財政論者で、外債発行によって局面を打開しようと考えました。

ある日突然、見慣れた景色の中から、懐かしい物が消えてしまった。そんな経験をされた方は多いと思います。世の事情と言ってしまえばそれまでですが、せめて、どうにかならなかったのか、何か遺せる手段はあったのでは・・・という後悔の念だけは残ります。 個人の力では限界がある。故に、「もっと自分の町を知ろう」という共同体を創設し、有形無形の財産を次世代につなげる。これが、一般社団法人「もっと自分の町を知ろう」という団体を設立する目的です。

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