一般社団法人 もっと自分の町を知ろう

老農 塚田喜太郎プロジェクト

「福島県郡山市訪問記 」  老農塚田喜太郎顕彰プロジェクト副実行委員長 宮島孝男

 2025(令和7)年7月17日(木)、「老農塚田喜太郎顕彰プロジェクト」の実行委員長・南泉院住職宮下亮善氏、「老農塚田喜太郎翁顕彰碑」(3月、生誕地鹿児島市山田町に建立)の施工に当たった前迫石材の代表取締役・前迫実氏、同プロジェクト副委員長の私の3人は、2泊3日で郡山市を訪問するため7時35分鹿児島発JAL640便で羽田へ飛び立った。懸念されていた新燃岳の噴火による欠航もなく、無事離陸できて乗客一同安堵の模様だ。
 機内で私は、植松三十里『侍たちの沃野 大久保利通最後の夢』と宮本百合子『貧しき人々の群れ』を再読した。『侍たちの沃野』は、大久保が始めた安積疎水の大事業を完成させた内務省技官・南一郎平の生涯を描いた歴史小説であり、『貧しき人々の群れ』は、悉く失敗する士族の米作りやその困窮ぶりなど当時の悲劇を綴った短編小説だ。ちなみに宮本百合子は福島県庁安積原野開拓担当者の中條政恒の孫である。 

 搭乗機は定刻より10分遅れの9時30分に羽田に着陸した。私たちは郡山市へ直行せず「青山霊園」に立ち寄った。大久保利通と大久保利泰氏(利通公曾孫 2024年没)の墓参のためである。利泰氏は、亡くなる直前まで塚田喜太郎のことを大層気にかけておられ、特別賛同者としてプロジェクトにも名を連ねていただいていた。私の墓参は2004(平成16)年の「甲東祭」以来だ。
 墓所に足を踏み入れると、「贈右大臣正二位大久保公墓」と正面に刻む、ひときわ巨大な墓碑がそびえている。亀の台座に据えられ、鳥居も付いた墓だ。大久保公の葬儀は神式をもって盛大に行われ、これが後の国葬の原型になったといわれるが、墓所にしても、大久保公が当時占めていた位置を象徴しているかのようだ。傍らには、暗殺の側杖を食った馭者と馬の墓まである。
 大久保公墓に拝礼後、対面の一角にある大久保家の墓に移動、利泰氏に「プロジェクトではお嬢様の洋子さんに、顕彰碑除幕式へのご参列など大変お世話になりました」と報告を行った。
 ちなみに青山霊園であるが、大久保利通に始まり、尾崎紅葉、国木田独歩、後藤新平、乃木希典、北里柴三郎、犬養毅、斎藤茂吉、吉田茂、志賀直哉(没年順)等々、著名人の墓が多い。大警視川路利良も大久保公の近くに眠っている。

 東京駅から東北新幹線で約90分、予定より少し早めの15時過ぎに郡山駅に着いた。駅には、3月29日の顕彰碑除幕式に参列された鈴木英雄氏(大久保利通公顕彰会会長)と寺田美智子氏(安積町自治会元会長)のお二人の姿があった。鈴木会長の車で街並みを見ながら宿泊先のホテルバーデンに向かう。初めて郡山市入りした私の質問に懇切丁寧に答えて下さる。時々の郡山弁が耳に心地よい。
 ホテルバーデンは、市街ではなく広大な安積の田んぼを前にポツンと立っていた。駐車している車のナンバーでいろいろな所から客が来ていることがわかる。源泉かけ流しの大浴場と立派なグランドゴルフ場が人気という。
 17時半からホテルの和風レストランで鈴木・寺田両氏を交えて会食懇談。アルコールを飲まない宮下住職と飲めない前迫社長、私は銘酒「大七純米生酛」を独占状態だった。メイドさんの祖父が大隅半島の出身というのにもいささか驚いた。

 

 7月18日(金)、4時半にすぱっと目が覚めた。もう外は明るい。夜明けが鹿児島より一時間近く早いのだ。銘酒ということでつい飲み過ぎたが、頭はスッキリしている。やはり良いお酒は二日酔いしないようだ。
 ホテルの裏側を流れている川のほとりを散策した。春は桜並木が美しく花見でにぎわうという。二人の高齢な散歩者と出会い、少し話を交わした。一人は安積の水が出てくる土地の出身であり(当地より約20キロ)、もう一人は鹿児島に遠縁がいるとのことであった。ただし、二人とも大久保利通は知っていても(神社や水祭りがあるからだろう)塚田喜太郎は知らなかった。後刻、そのことを鈴木会長に問うと、「このあたりの人はほとんど塚田のことは知りません。ここらに住んでいなかったし、米作りの指導もしていなかったので」と教えてくれた。

 

 8時30分、鈴木会長の車で最初の目的地「大久保神社」に向かう。創建130年の2019(令和元)年9月、鹿児島から参拝に訪れた宮下住職らが寄進した石灯籠など神社の佇まいにすっかり溶け込んでおり、うれしい気分にさせられた。
 美智子お姉さま(私は寺田氏のことを自然にそう呼ぶようになっていた)と途中で合流し、次の目的地である真言宗豊山派「龍角寺」(喜久田町堀之内)を目指す。龍角寺には「塚田喜太郎墓」があり、鈴木克信住職が長年地元の檀家の皆様と共に塚田を大切に供養されている。待機していた金田敏憲氏(安積野開拓顕彰会事務局長)とも合流し、龍角寺の墓地の一角にある塚田の墓に到着した。万感の思いである。
 塚田の墓は安積に一緒に赴いた甥の森元山助が建立、遺言通り故郷鹿児島の方向、西に向けられていた。墓標には「鹿児島縣薩摩国谷山郡谷山村大字山田 平民塚田喜太郎『喜悦院釈善穂義讃清居士位』」と刻まれている。墓の横には陶板と石柱、両脇には燈篭が置かれ塚田の墓を彩っている。宮下住職より寄贈されたものだ。宮下住職の読経後、皆で合掌礼拝した。続いて宮下委員長がプロジェクトより塚田の回向料として5万円を納め、鈴木住職を囲んで懇談した。
 午前中の目的地の最後は、「老農塚田喜太郎之碑」(喜久田町北原)である。この碑は安積開拓120周年を記念し、1997(平成9)年、喜久田町民の寄付金および郡山市、安積疎水土地改良区の補助金により、1889(明治22)年に建てられた頌徳碑を同地に再建立したもの。頌徳碑は、安積開拓事業における塚田の功績を讃えるべく、塚田が暮らした住居跡に建てられた。碑銘・碑文は奈良原繁が書いている。
 安積開拓の総指揮を執っていた旧薩摩藩出身の奈良原繁は、鹿児島で老農として名の知られていた塚田を「どうか、お国のために」と半ば口説き落とす形で安積に迎え入れた。余談だが、奈良原は1883(明治16)年静岡県令に就任すると〝博徒の大刈込〟に着手、翌年、あの清水次郎長を逮捕している。
 隣接する北原集会所には、金田事務局長の計らいで鹿児島の顕彰碑の拡大写真が掲示されていた。金田氏は鈴木・寺田両氏と共に除幕式に来鹿・参列、その模様を『会報 安積野開拓』に寄稿もしている。
 そば屋で早めの昼食を終えると、13時からの郡山市長表敬訪問までにはまだ時間があるので、「開成館」に先に行くことになった。開成館は安積開拓の貴重な歴史資料を展示しているが、2021(令和3)年と2022(令和4)年の福島沖地震の影響で閉館中(=復旧に向け準備中)であり、安積開拓官舎と入植者住宅のみの見学となった。
 入口の休憩所には、記念誌『その遺徳遥かなり 鹿児島と郡山を繋ぐ物語』と安楽正矩編著『老農塚田喜太郎』(復刻版)が目立つように置いてあり、受付の職員に感謝の意を述べた。

 13時、いよいよ椎根健雄市長を表敬訪問する時間となった。前郡山市長の品川萬里氏と安積野開拓顕彰会会長の大内嘉明氏も加わっている。市長を3期務め、この4月に勇退した品川氏は、両市の青少年交流に意欲的で、後継の椎根新市長にその意思を伝えていた。市側からは椎根市長の他、文化スポーツ観光部文化振興課長の橋本徹氏、同歴史情報博物館館長の嶋根裕一氏、同文化財保護係長の濱田暁子氏(担当窓口)らが同席した。

 まず宮下委員長が、本年3月、塚田の生誕地鹿児島市山田町に顕彰碑を建立したことなど事業の概要を紹介、「顕彰で終わりではなく、両市の青少年が交流することで互いの歴史を学び、郷土への誇りを持つことにつなげたい」と挨拶した。そして6月に発行した記念誌(先述)362部を郡山市の小中高校等に寄贈した。それに対し椎根市長が、感謝状を手渡し、「功績を後世に伝え続けなければならない」と謝辞を述べた。
 併せて、「市長室に飾って下さい」と宮下委員長から記念品の贈呈もあった。屋久杉に大久保利通が座右の銘としていた言葉『為政清明』が刻まれたもので、「政治家として心すべき言葉であり、感謝に堪えない」と椎根市長はご満悦の様子だった。
 歓談の冒頭では、宮下委員長が郡山市との絆が強まることを祈念した下鶴隆央鹿児島市長の親書を代読、両市の一層の友好を誓い合った。
 約1時間に亘った市長表敬訪問、その模様を取材した記事が福島民報と福島民友の地元両紙に20日付で掲載された。郡山市民をはじめ福島県民に広く知られることになり、誠にありがたかった。
 ちなみに郡山市は、人口約32万の中核市である(福島県トップ)。郡山市長48歳、鹿児島市長44歳。二人とも若く県議出身という共通項もある。今後、青少年をはじめとして両市間の様々な交流が進むことを願ってやまない。
 なおこの席で、水運研究をライフワークとする今上天皇(徳仁親王)に関するエピソードが品川前市長より披露されたのでつけ加えておきたい。
 2025(令和7)年7月8日、天皇は「第7回国連水と災害に関する特別会合」においてビデオ講演をされ、その中で「皇太子時代、妻の雅子と安積開拓活動の拠点だった開成館を訪れましたが、当時の人々の苦労と夢を想い、感慨深いものがありました」などと述べられたという。

 温かい歓迎の余韻に浸りながら次の目的地「安積疎水土地改良区」に向かい、國分周司理事長を表敬訪問した。二階の理事長室へ至る通路に大久保利通・奈良原繁・松方正義と並んで西郷従道のパネルがあるのに気づいた。西郷隆盛の弟従道も安積開拓に関与していたのだ。根本和俊総務部次長によると、1881(明治14)年、安積疎水の管轄は内務省から農商務省に移ったが、そのトップの農商務卿を務めていたのが従道で、翌1882(明治15)年の通水式にも岩倉具視右大臣や松方正義大蔵卿らと共に参列しているとのことであった。
 次は本年3月15日にオープンしたばかりの「郡山市歴史情報博物館」を訪問した。企画展「明治天皇の巡幸と安積開拓」がタイムリーにも開催されており、それを見学するためである。デジタルを駆使した最新鋭の設備で、郡山市の歴史民俗など堪能することができた。
 最後は博物館近くの「安積疎水麓山の滝(飛瀑)」を見学した。滝は1882(明治15)年に完成した安積疎水を記念して造られたが、現在は水は流れていない。滝のある麓山公園は明治の初め町民有志たちにより造成されたもので、当時は共楽園と呼ばれていた。「滝を見て酒を飲む」庶民の憩いの場でもあったが、後に「ならぬ」とご法度になったという。
  17時半、全ての行程を終え、品川前市長や嶋根博物館長も参加して中華料理店「龍宮城」で懇親会が始まった。終始、美智子お姉さまの見事な仕切りと愉快な会話で大いに盛り上がり、こうして郡山最高の一日は暮れていった。

 

 7月19日(土)8時半、鈴木会長の車でホテルから郡山駅へ向かう。鈴木会長は運転しながら、「ここもあそこも私の田んぼです」と指差す。70町歩ほど作っておられるとか。規模が大きすぎてなかなか想像がつかない。
 鈴木会長と美智子お姉さまに見送られ東京へ。東北は戊辰戦争で薩長を中心とする新政府軍に敗れ賊軍の汚名を着せられた地である。にもかかわらず、「薩摩に恩はあっても恨みはない」郡山市の皆さんのご厚情を肌で感じた3日間であった。
 戦後80年、宮下住職の提案で靖国神社の本殿に参拝し、予定通りの飛行機で無事帰路についた。

【事後編】
  帰宅翌日、近所の奥さんから偶然にも「高校教諭であった夫が若い頃、確か昭和56~59年の3年間だったと記憶していますが、教員交流で福島高校に行っていました。制度ができて二人か三人目でした。中学校にも一人行っておられました」と聞いた。既に早くから福島県と鹿児島県は交流を行っていたのである。現在、県教育庁に詳細を調査依頼中である。

 8月1日(金)、宮下実行委員長と鹿児島市教育委員会へ郡山市長表敬訪問の報告に上がった。下鶴市長には事前にパソコンで送信していた福島民報と福島民友の記事など既に報告済みであった。鹿児島市側は市教育委員会総務課主幹兼企画調整係長の圓若正行氏が窓口になる。郡山市の濱田係長から圓若係長へご挨拶の電話もあったとのこと。
  民間の盛り上げに対して行政が支援の手を差し伸べるスタイルが大半である。西郷隆盛を絆とする鶴岡第二中学校と武中(近くに西郷屋敷跡がある)の先例等に学ぶため、鹿児島市の様々な交流事例を教えて欲しいとお願いした。
 2027年は西郷生誕二百年・没後百五〇年のメモリアルイヤー、西郷や大久保をはじめ明治維新を学ぶのには格好の機会であり、郡山市からの来鹿が望まれるが、鹿児島市側から先に行くべきだとするとあまり時間がなく苦慮している次第である。

感謝状を前に(左から金田氏、寺田氏、筆者、椎根市長、宮下住職、前迫氏、大内氏、鈴木氏、品川前市長)

2025年3月29日塚田喜太郎顕彰碑を建立しました!

令和7年(2025年)3月29日(土曜日)、鹿児島市山田町にて、「老農塚田喜太郎顕彰碑」の除幕式を開催、地元住民はじめ、関係者・来賓合わせて146名に参加いただきました。

この顕彰碑は、塚田喜太郎翁の遺徳を偲び、その功績を地域の誇りとして後世に伝えること、さらには郡山市と鹿児島市の末永い相互交流と相互理解の礎を築くことを目的として、118名の個人、団体、企業の寄付により建立したものです。

当日は、除幕式の後、照国神社の田原権宮司による神事が営まれ、その後、地元山田地区に古くから伝わる無形民俗文化財である山田鉦踊りを山田鉦踊り保存会の皆様が奉納しました。さらに、福岡を拠点に活動する声色俳優岩城朋子さんによる語り芝居「老農塚田喜太郎物語」が奉納され、岩城さんの迫真の演技によって喜太郎翁の功績や苦労を偲ぶことができ、「感動の物語」が参加者の記憶に留めるところとなりました。

続く式典では、主催者である宮下亮善実行委員長の挨拶の後、当プロジェクトから、鹿児島市の小中高校に寄贈する2冊の書籍目録が下鶴鹿児島市長に贈呈されました。一冊は当プロジェクトにおいて3月末に出版した『老農塚田喜太郎』(昭和59年安楽正矩著)の復刻版、もう一冊は5月末に出版予定の記念誌『その遺徳はるかなり、郡山と鹿児島を繋ぐ物語』です。各小中高校には4冊ずつ計500冊ずつ贈呈する予定です。

来賓挨拶では、下鶴隆央鹿児島市長、大久保利通公子孫の大久保洋子様をはじめ、計7名の皆様にご挨拶を賜り、盛会のうちに式を閉会しました。
参加者からは、「地域の歴史を再認識する機会になった」「若い世代にも知ってもらいたい」といった声が寄せられました。
除幕式の様子
神事
左から4番目下鶴鹿児島市長
顕彰碑

塚田 喜太郎とは?

1821年~1890年
薩摩谷山村山田生まれの農民。

巧みな水難対策で村を洪水から救ったり、不毛の泥濘地を見事な田圃に変えるなど卓越した農業土木術を有すとともに、村の困窮者に飯米を提供する等、幕末の薩摩藩において藩庁から表彰されたこともある篤農家。

明治の初め安積開拓事業を強力に推し進めた大久保利通亡き後、事業を引き継いだ奈良原繁から、半ば懇願される形で齢60にして安積に赴き農業指導に従事。苦難の末、独自の農法を編出し、不毛の安積の地を恵みの地に変えた。薩摩に戻ることなく10年後同地に没した。

2025年3月29日に老農塚田喜太郎顕彰碑除幕式を開催します!

12月1日の「一蔵どんと喜太郎どん」講演会動画公開中!


① 講演にも匹敵する開会挨拶 宮島孝男副実行委員長


② 基調講演 原口泉「福島県安積(あさか)疎水事業とかごしま」


③ リレートーク1浦辺登「塚田喜太郎に見る薩摩人の利他の精神」


④薩摩の何者でもない者「塚田喜太郎が遺した風景」今村太多志


⑤「西南の役恩讐を越えてから塚田喜太郎まで」

TV、新聞等での報道

〇12月1日の講演会がMBCニュースで紹介されました(2024年12月1日)
 以下からご覧いただけます
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1589161



「老農 塚田喜太郎顕彰プロジェクト」で何をやるか

 プロジェクトの目的は、九州、特に鹿児島において塚田喜太郎の功績を再評価し、広く市民にその遺徳を知ってもらうことです。具体的な活動としては、「顕彰イベント」、「記念誌の発行」、「顕彰碑等の建立」などを行います。 

 プロジェクトではクラウドファンディングを立上げるなどして寄付金を募り、具体的に以下の事業を行う予定です

(1)顕彰イベントの開催
   鹿児島市、郡山市、福岡市で顕彰イベントを開催

(2) 記念誌の編纂・刊行                            
   塚田喜太郎翁を継承する記念誌の編纂と刊行

(3) 塚田喜太郎顕彰碑等の建立 
 ・郡山の塚田喜太郎墓への燈籠、切り絵の陶板の設置
 ・鹿児島市谷山の生誕地への顕彰碑の建立

 今年10月22日の有志17名で郡山市の龍角寺の塚田翁の墓参を行い、宮下住職が準備した燈籠や顕彰碑文碑、切り絵の陶板を寄贈しました。

老農 塚田喜太郎顕彰プロジェクト」設立の経緯

1 鹿児島の関係者が「塚田喜太郎」を知った経緯  
 2019 年9月、郡山市の大久保神社第130 回水祭りに鹿児島から約30 名が参加し、その際に紹介される形で同市喜久田町の龍角寺の塚田喜太郎の墓を訪ねたことが、「塚田喜太郎」を知るきかっけとなりました。

 広い墓地で唯一、西向き(鹿児島方面)に向けて建てられた塚田翁の墓を見て、望郷の念を抱きつつ安積で没した翁に深い憐憫の情を感じました。また、塚田翁の住居跡近くに建立された顕彰碑に刻まれた碑文を読み、その偉大な功績に驚くとともに、郡山では語り継がれ顕彰されているにもかかわらず、故郷鹿児島では全く知られていないことに残念な思いを抱きました。
 2020年9月、前年の郡山訪問者の一人、鹿児島の天台宗南泉院の宮下亮善住職が、塚田翁の功績を偲び、またその御霊を慰霊する目的で龍角寺の塚田翁墓に「その遺徳遥かなり 安積開拓事業の礎となる」を刻んだ石柱を寄贈しています。

2 福岡、久留米との関わりとプロジェクトの誕生  
 2023年3月、福岡在住の歴史作家浦辺登氏が『明治4年久留米藩難事件』を出版し、書中において、多数の旧久留米藩士族が安積(郡山)に入植した経緯や、荒れ地の開墾で困窮を極め離散する者も出る中塚田喜太郎の農業指導により入植者が救われたことなどが紹介されました。この本がきっかけとなり、鹿児島と福岡の有志で交流が始まり、この度、鹿児島、福岡共同で「老農塚田喜太郎顕彰プロジェクト」を立ち上げることになりました。

 

老農 塚田喜太郎顕彰プロジェクトの発起人等

南泉院 宮下亮善和尚 塚田喜太郎を語る(動画)

1 「西南之役官軍薩軍恩讐を越えて」から始まった物語

2 塚田喜太郎を知ったきっかけ


3 塚田喜太郎とは何者か


4「老農 塚田喜太郎顕彰プロジェクト」でやりたいこと


浦辺登 塚田喜太郎を語るパート2

第2話 「塚田喜太郎はどのように学んだか」




第1話 「塚田喜太郎は何者か」

浦辺登 塚田喜太郎を語るパート1

1 「久留米藩難事件と福島県郡山開拓事業」


2 「久留米藩難事件と老農塚田喜太郎」

声色俳優 岩城朋子 塚田喜太郎を演ずる(動画)

1 語り芝居「老農 塚田喜太郎物語」

「老農 塚田喜太郎について」 歴史作家 浦辺登

現代日本において、塚田喜太郎(文政3~明治23、1820~1890)の名を知る人はごく僅か。一介の農夫が歴史に名を刻むなど稀なことだが、名を遺した。喜太郎は現在の鹿児島市武町、中山町における新田開発、大隅半島肝付での開墾に成功。沼や池を埋め、灌漑、土壌改良を成し遂げた。その手腕を乞われ、明治13年(1880)、現在の福島県郡山市の安積開拓地に招かれた。招聘したのは奈良原繁。奈良原といえば、文久2年(1862)の寺田屋事件で、君命を受け、有馬新七らの決起を抑えた人として知られる。

齢60を過ぎた喜太郎が招かれた安積開拓地には、九州久留米の士族たちが入植していた。いわゆる、士族授産として刀を鍬に握り替えての武士の農法だった。喜太郎を招いた奈良原には一つの禍根があった。久留米の入植者たちは、寺田屋事件に関わった真木和泉守を領袖とする久留米勤皇党の残滓でもあったからだ。奈良原の上司ともいうべき人は大久保利通。大久保も文久2年に真木と福岡筑後の羽犬塚で日本の行く末を討議した仲だった。さらに、真木の主君であった久留米藩主・有馬頼永の正室は島津斉宣の娘・晴姫だった。薩摩と久留米の、切るに切れない複雑な事情があったのだ。

しかし、喜太郎にとって、そんな武士の義理など関係ない。薩摩で蓄えた自身の農業技術を新天地で試したい。面白い!そんな躍動感に駆られたに違いない。お天道様の下、広大な大地が相手の農業においては、武士の論理、自尊心など何の役にも立たない。天地の間に生きる人はすべからく同じ。そして、「生きることは食べること。食べることは生きること」。百の言葉より実際の行動をもって、喜太郎の思いは見事、新天地の安積開拓地で結実した。けれども、明治23年(1890)2月21日、故郷鹿児島の方に向けてくれとの言葉を遺し喜太郎は病没。見事、福島県郡山に骨を埋めたのだった。

同じ日本でも東北地方は貧しかった。冷害、日照り、大地震、大津波で東北の民はバタバタ倒れていく。この時、近代農法を確立しなければ永久に東北の民は救われないとして岩手県盛岡に赴いた薩摩の男がいた。玉利喜造(安政3~昭和6、1856~1931)だ。明治8年(1875)、風雲急を告げる鹿児島において、西郷隆盛に世界情勢を説いた。「おはんは、学問でこん国を立て直しもんせ」との西郷の声に押し出され、玉利喜造は上京、アメリカ留学も果たした。農科大学教授(現在の東京大学農学部)の職を辞し、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)の初代校長に着任。東北に近代農業の礎を築いた。その卒業生には「雨ニモ負ケズ」の詩人、花巻農学校教師であった宮沢賢治がいる。

西郷は農本主義者と称えられる。農本主義とは「農は国の本なり」という思想だ。まず、民の安寧の初めは食べること。人の生命を支える農業は国の根幹を支えることに繋がる。西郷、大久保、奈良原らは、世の安寧のため農業で人の生命を救いたかった。その最前線で黙々と老農・塚田喜太郎は農業技術を伝授し、日本の民を支えた。故に、この老農・塚田喜太郎の功績を称えることは、西郷、大久保、奈良原らの願いを伝えることにも繋がるのだ。

ある日突然、見慣れた景色の中から、懐かしい物が消えてしまった。そんな経験をされた方は多いと思います。世の事情と言ってしまえばそれまでですが、せめて、どうにかならなかったのか、何か遺せる手段はあったのでは・・・という後悔の念だけは残ります。 個人の力では限界がある。故に、「もっと自分の町を知ろう」という共同体を創設し、有形無形の財産を次世代につなげる。これが、一般社団法人「もっと自分の町を知ろう」という団体を設立する目的です。

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