一般社団法人 もっと自分の町を知ろう

定例講座要旨

2026年4月浦辺登の近代史講座(4月11日第2部)

「咸宜園と幕末・明治維新」

本講座では、昨年1129日に当法人の歴史ツアーで訪問した、天領日田の江戸後期の私塾「咸宜園(かんぎえん)」と、その教育が幕末・明治維新に与えた影響について浦辺先生から日本の近代化に果たした役割などについてお話しいただいた。

結論から言えば、咸宜園は単なる地方の学問所ではなく、日本の近代国家形成、とりわけ教育制度や人材育成に大きな影響を及ぼした重要な拠点であった。

咸宜園は、豊後日田の儒学者である廣瀬淡窓によって開かれた私塾である。淡窓は商家に生まれたが、病弱であったため家業を弟に譲り、自らは学問の道に進んだ。その思想形成に大きな影響を与えたのが、福岡の儒学者亀井南冥のもとでの修学経験である。南冥は「学問は世のため人のためにあるべき」という実学重視の思想を持ち、これが咸宜園教育の根幹となった。

咸宜園の最大の特徴は、従来の身分制社会の枠を超えた開放的な教育制度にある。「三奪(さんだつ)」と呼ばれる理念では、身分・年齢・学力を問わず、学びたい者は誰でも受け入れるとした。また「奪席」という制度では、塾生同士が競争し、実力に応じて席次が変動する仕組みを採用していた。さらに、成績評価には学力だけでなく品行や協調性も含まれ、「月旦評」として総合的に人物を評価した。これは現代の人間教育や人格教育にも通じる先進的な仕組みである。

このような教育環境のもと、咸宜園からは多くの優れた人材が輩出された。代表的な門弟としては、幕末の蘭学者高野長英や、明治政府の軍制改革を主導した大村益次郎がいる。彼らはそれぞれの分野で近代日本の礎を築いた人物であり、咸宜園の教育が実社会で活きたことを示している。

さらに注目すべきは、咸宜園の教育が明治期の国家制度にも影響を与えた点である。咸宜園出身の儒者長三洲は、明治政府の文部省に入り、日本の義務教育制度の整備に関わった。彼は咸宜園の教育理念を取り入れ、生徒による清掃や給食配膳、自治活動、さらには生活態度を含めた評価制度を導入した。これは現在の日本の学校教育の原型とも言えるものであり、咸宜園の思想が制度として結実した例である。

一方で、咸宜園の門弟たちは幕末の政治動乱にも深く関与している。例えば、咸宜園で学んだ人々の中には長州奇兵隊に参加した者や、各地の勤皇運動に関与した者も多い。また、明治初期には久留米藩難事件のような騒動にも関係者が関与し、維新後の政治的不安定さの中で活動していたことが紹介される。さらに、福島県の安積開拓に参加した人々の中にも咸宜園の影響を受けた者が含まれており、日本の地方開発にもその人的ネットワークが寄与していた。

また思想的な系譜にも言及された。亀井南冥の門弟には、後に思想家や活動家を輩出する流れがあり、例えば高場乱の人参畑塾からはアジア主義者が育った。さらにその系譜は玄洋社や黒龍会といった団体にもつながり、近代日本の対外思想にも影響を与えたとされる。

このように、本講座では咸宜園を単なる教育機関としてではなく、「人材育成の拠点」と「思想の源流」として位置付けてた。そこから輩出された人材が、政治・軍事・教育・思想といった各分野で活躍し、日本の近代化を支えたという構図が示された。

まとめとして、咸宜園の意義は三点に集約された。第一に、身分を超えた開かれた教育を実践した先進性。第二に、実社会に役立つ人材を育成した実学主義。第三に、その教育理念が明治国家の制度や思想にまで影響を与えた歴史的価値。

すなわち咸宜園は、近代日本の「人づくり」の原点の一つであり、その精神は現代にも通じる普遍的意義を持っていると言えるとし、浦辺先生は世界遺産として登録されるべき文化的価値があると評価した。

【主な質疑応答】

Q1:実際に咸宜園を訪れた感想と、今後の活かし方については?
A: 咸宜園では、学芸員の方が小学生にも分かりやすく説明してくださり、館長も非常に熱意に溢れていました。広瀬淡窓の教えが今も受け継がれていることを実感します。福岡の「亀井塾」などとも連携し、日本遺産や世界遺産を目指す遺産群としてもっとメジャーにしていくべきだと考えています。

Q2:長崎にも多くの宝(歴史的資産)があるのに、なぜ地元長崎は気づかないのでしょうか?
A: 一昨年当法人の講座に来ていただいたゲスト講師の長崎の歴史研究者の松尾龍之助さんも「なぜ長崎の人間は気づかんのか」と常に仰っています。福澤諭吉が砲術を学んだのも長崎ですが、慶應義塾の人も意外と気づいていません。中の人が気づかない場合は、外側からつつくのが一番いい方法だと思います。

Q3:天領であった咸宜園に、幕府の旗本の指定などは来なかったのですか?
A: 代官の息子が入学した例はあります。しかし、咸宜園は身分制度を排した実力主義だったため、成績が悪いと代官から「なぜうちの息子がこんな成績なんだ」とクレームが来ました。淡窓の弟の旭荘などは、それに嫌気がさして大阪へ行ってしまったほどです。それほどレベルの高い競争社会でした。

Q4:咸宜園は教育機関を超えて、近代の民主社会モデルのように進んでいたのでは?
A: まさにその通りです。良いところを制度に組み込んでいました。大村益次郎なども咸宜園を経て長崎へ行くなど、ここを通過点として進んでいった人が多い。当時の日本において、非常に進みすぎた場所であったと言えます。

Q5:江戸時代の日本の識字率は、世界的に見ても高かったのでしょうか?
A: ヨーロッパより上だったでしょう。日本では「読み書き」だけでなく、講談や浪曲を通じて倫理観を学ぶ「耳学問」の普及率が群を抜いていました。字が読めなくても、耳で世の中の動きを覚えてトップに立つような人物(伊藤伝右衛門など)もいたのが日本の特徴です。

Q6:なぜ日本だけがアジアの中で突出して近代化に成功したのでしょうか?
A: 日本は教育先進国だったからです。幕末には既に、オランダ語を通じて西洋の言葉に「文法」があることを理解し、日本語に置き換える作業ができていました。ペリーが来た時には既に言葉の置き換えがほぼ完成しており、相手が何を言っているか理解できていた。この知的基盤が非常に大きかったのです。

Q7:咸宜園に女性は入学できたのでしょうか?
A: 入学できました。尼僧などが学んでいた記録があります。ただし、男子と一緒の合宿はできないため、通学という条件でした。「身分・年齢・学歴」を問わない「三奪」に加え、「性別」も問わない姿勢は非常に先進的でした。

Q8:長崎の「上野彦馬」が咸宜園に馴染めなかったという話を聞いたことがありますが?
A: 彼は化学や数学、蘭学が好きだったので、咸宜園の教育(漢学中心)とは合わなかったのかもしれません。しかし、彼のような異才が一度は咸宜園の門を叩いたということ自体、当時の咸宜園の存在感の大きさを示しています。人によって合う合わないはあっても、教育機関としての格は最高峰でした。

 

2026年4月浦辺登の近代史講座(4月11日第1部)

「開国以前の日本  ペリー来航と通商条約

本講座は、1853年のペリー来航を単なる「開国のきっかけ」としてではなく、当時の国際情勢と日本国内の変化の中で必然的に生じた歴史的転換点として捉え、その本質を明らかにするものとなった。

講師は、まず前提として、江戸時代後期の日本は決して静止した社会ではなかったとした。幕藩体制のもと約300の藩による統治が続いていたが、武士階級の形骸化や商人の台頭、身分制度の弛緩など、内部から変化が進んでいた。また、オランダとの交易を通じて蘭学が流入し、西洋の知識や世界情勢を理解する素地も形成されていた。すなわち、日本は完全に閉ざされた国家ではなく、「限定的に世界と接続された国家」であった。

一方、世界に目を向けると、欧米列強はアジアへの進出を加速させており、清国はアヘン戦争によって大きく弱体化していた。このような国際環境の中で、日本は太平洋航路の補給拠点として、また新たな市場として注目されていた。したがってペリー来航は、偶発的な出来事ではなく、国際構造の中で必然的に生じたものであったとした。

講義では特に、ペリー来航に関する通説の修正がなされた。一般にはアメリカから直接来航したと理解されがちであるが、実際には上海や沖縄を拠点とした軍事的行動であり、日本は戦略的拠点として位置付けられていた。また、いわゆる「白旗問題」に象徴されるように、ペリーの外交は平和的交渉ではなく、武力を背景とした恫喝的なものであった点も重要であるとした。

しかしながら、日本側も一方的に押されたわけではない。オランダ通詞を中心とした交渉体制や、漂流民などを通じた情報収集など、一定の外交能力を有していた。また庶民レベルでは黒船見物が娯楽化するなど、社会は柔軟に対応していた点も興味深い。

その後、日本は日米和親条約、さらに日米通商条約を締結するに至る。これらの条約は、治外法権や関税自主権の欠如といった不平等な内容を含んでいたが、講義ではこれを単なる「敗北」とは捉えない視点が提示された。すなわち、日本は清国の失敗を踏まえ、軍事的衝突による壊滅的な結果を回避するため、あえて条約を受け入れたのである。
 
その中でも最も重要な点が「阿片問題」である。通商条約の原案には阿片貿易に関する条項が含まれていたが、日本はこれを明確に拒否した。清国において阿片が国家崩壊を招いた実態を認識していた日本にとって、阿片の流入は絶対に避けるべきものであった。この判断は、不平等条約を受け入れる一方で国家の根幹を守
るという、極めて戦略的な選択であったと評価できる。

さらに、開国は経済や外交だけでなく、感染症の流入という新たな脅威ももたらした。長期間「無菌状態」に近かった日本社会は外来の病に対する耐性を持たず、多くの犠牲を伴うこととなった。この点からも、開国は単なる進歩ではなく、大きなリスクを伴う転換であったことが理解できる。

以上を踏まえ、本講座は以下の通り結論づけた。すなわち、日本は外圧に屈したのではなく、限られた選択肢の中で「何を守るべきか」を見極め、主体的に判断した。不平等条約という形で一部の主権を譲りながらも、阿片の流入を阻止し、国家の健全性を維持した。この選択こそが、その後の明治維新と近代国家への道を切り開いたとした。

講師は、歴史を単なる出来事の連続としてではなく、「意思決定の積み重ね」として捉える重要性を示した。トランプ関税や中国からの圧力が強まる現代においても、外圧と向き合いながら何を守るのかという問いは変わらない。本講義はその示唆を与えるものとなった。

【Q&A】
Q1 南北戦争時の武器商人が上海から日本に武器を流したとのことだが、トーマス・グラバーだけなのか?

A1 グラバーだけではありません。多数の商人が関与しています。中には南北戦争で敗れた南軍の人間が上海に渡り、商売として武器取引を行っていた例もあります。戦争に負けても利益機会があれば動くという商人が、上海を拠点に多数存在していました。



Q2 
ペリー来航において、シーボルトが同行していたら歴史は変わっていたのか?またペリーはシーボルトの影響を受けていたのか?

A2 ペリーはシーボルト個人に依存していたわけではなく、すでにヨーロッパで出版された「日本誌」などを通じて、日本に関する情報を十分に得ていました。一方で日本側は世界情勢の把握が不十分で、特に幕府は情報を十分に活用できていませんでした。この情報格差が大きな要因です。



Q3
 
当時、日本の武士たちはなぜ上海に行っていたのか?

A3 主目的は武器や船の購入です。各藩の武士が上海に赴き、欧米商社と交渉して軍備を整えていました。その過程で、アヘンに蝕まれた中国の現状を目の当たりにし、強い危機感を抱きました。海外では藩の枠を超えて「日本人」として連携する意識も生まれていました。



Q4 
幕末を「麻薬戦争」という視点で研究している学者や文献はあるか?

A4 特定の研究者はほとんどいません。ただし関連する文献は存在しており、特に過去に出版された資料の中には貴重な研究もあります。ただし中国ではこの歴史が意図的に扱われにくい側面があります。



Q5 
アメリカはペリー来航以前から日本を詳細に調査していたのか?

A5 その通りです。アメリカは事前に徹底した調査を行い、戦略的に行動しています。ハワイ併合なども同様で、事前に弱点を調査した上で行動しており、この体質は現在にも通じています。



Q6 
なぜアメリカは日本を重要視していたのか?

A6 太平洋航路の拠点として、日本(特に小笠原・沖縄)は極めて重要だったためです。石炭補給地としての価値もあり、中国大陸との交易の中継拠点として必要不可欠でした。



Q7 
日本が朝鮮に対して行った条約締結はペリーの模倣か?

A7 その通りで、日本はペリーの手法をほぼそのまま模倣しています。これは後に「アメリカの鏡」とも言われ、日本の行動はアメリカの行動の反映であるという指摘もあります。




Q8 
薩摩藩は琉球を実質的に支配していたがペリー来航に際しどのように対応したのか?

A8 薩摩は動揺せず、むしろアメリカを利用しようとする戦略的対応を取りました。幕府と異なり、海外情報を積極的に収集しようとする姿勢があり、東日本と西日本の藩で大きな差がありました。



Q9 
幕府の外交は弱腰だったのか?

A9 一概にそうとは言えません。幕府は合議制で意思決定しており、アヘン拒否など一定の強い姿勢も見せています。交渉面でも粘り強い対応をしており、評価すべき点も多いです。



Q10 
金銀交換比率問題を幕府は理解していたのか?

A10 一部は理解していましたが、実務レベルでは情報不足がありました。特に市場レートの差を利用した利益構造が存在し、情報が共有されていなかったことが大きな問題でした。



Q11 
ジョセフ・ヒコや中浜万次郎の存在は日本にとって重要だったか?

A11 非常に重要でした。万次郎は通訳だけでなく航海技術でも貢献し、ヒコは明治以降の情報発信に大きく寄与しました。彼らの存在は日本の近代化に大きな影響を与えています。

 

ある日突然、見慣れた景色の中から、懐かしい物が消えてしまった。そんな経験をされた方は多いと思います。世の事情と言ってしまえばそれまでですが、せめて、どうにかならなかったのか、何か遺せる手段はあったのでは・・・という後悔の念だけは残ります。 個人の力では限界がある。故に、「もっと自分の町を知ろう」という共同体を創設し、有形無形の財産を次世代につなげる。これが、一般社団法人「もっと自分の町を知ろう」という団体を設立する目的です。

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