江戸時代末期の慶応期、福岡藩から激動の幕末を駆け抜けた勤王の歌人・野村望東尼(のむら ぼうとうに)。彼女の生涯はこれまで、錦絵や後世の創作による俗説に彩られることも少なくありませんでした。本講演では、望東尼研究の第一人者である谷川佳枝子先生が、本人が残した日記や手紙などの膨大な一次史料をもとに、彼女の知られざる実像と、流刑地・姫島での過酷ながらも心温まる日々の全貌を多角的に詳述してくださいました。
1. 文学少女から歌の道へ、そして出家・剃髪の真実
野村望東尼(本名:モト)は1806(文化3)年、福岡藩士・浦野勝幸(家禄300石)の家に7人きょうだいの3番目として生まれました。幼少期から文学志向が強く、宮廷に憧れるような少女だったと言います。17歳での初婚は半年で破綻しますが、24歳の時に同藩士の野村貞貫(さだつら、家禄413石)と再婚。夫にはすでに3人の子があり、自身の実子は幼くして亡くすという苦難を経験しながらも、27歳で夫と共に新進気鋭の歌人・大隈言道(おおくま ことみち)に入門します。1日100首という厳しい作歌修行を重ね、文学の才を磨いていきました。
その後、40歳を過ぎた頃、家督を息子に譲った夫と共に移りました。しかし、そこでも継子の自死や夫との死別という不幸が続きます。夫が亡くなった1859(安政6)年、54歳のモトは、夫の初七日の法要後直ちに出家し、「招月望東禅尼」となりました。
近年、「短髪の在家出家だったのではないか」という俗説も囁かれていますが、谷川先生はこれを一蹴します。望東尼が友人宛てに書いた手紙の記述「髪をおろしはべり、様を変えはべりしかば」や、京都の知人に書き送った手紙にある「ここ(福岡)にて己が髪剃る人なくて、いと不自由なる」という記述から、彼女が実際に髪を剃り、丸坊主の尼僧として墨染めの法衣をまとっていた事実が明確に証明されています。
2. 勤王活動への傾倒と「乙丑の獄」による弾圧
夫の死後、京都や大坂に滞在した望東尼は、幕末の動乱を目の当たりにして福岡藩の行く末を深く憂慮するようになります。帰国後は平尾山荘を拠点とし、長州の高杉晋作や平野国臣ら勤王の志士を匿い、情報交換や支援に奔走しました。
当時、高杉晋作が山荘に潜伏した際、望東尼は山荘を志士に提供し、自身は雪の日も雨の夜も本家から山荘へ通い詰めて往来に明け暮れていました。手紙にも「十一月ばかりより、ここかしこの隠れ人を預かり、それに取り紛れ、ただ一筆を書くいとまもなく候えば」とあり、懸命になって彼らを支えていたことが分かります。高杉との関係は単なる詩歌のやりとりというものではなく、深い信頼のきずなで固く結ばれたものであったと思われます。
しかし、藩内の政争により勤王派への弾圧「乙丑の獄(いっちゅうのごく)」が激化すると、望東尼も捕らえられます。実家の浦野家に移された彼女は、自ら望んで組み立て式の座敷牢に入りました。月形洗蔵ら同志14名の斬首、加藤司書ら4名の切腹という凄惨な処罰を牢内で聞いた彼女は、「あまりのことに涙も出でず」と日記『夢かそへ』に深い絶望を記しています。1865(慶応元)年10月、59歳の望東尼に下された判決は「姫島流罪」でした。本来は死罪(一道)相当のところを、高齢の女性であることから格別の慈悲で減刑されたものでした。彼女は「かへらでも 正しき道の 末なれば 誰も嘆くなわれも嘆かじ」という決意の歌を扇子に書き残し、流刑地へと出発しました。
3. 姫島での過酷な獄中生活と、島民との心温まる交流
流刑先の姫島での生活は、4畳ほどの広さの牢に10ヶ月間一歩も外に出られないという、凄絶なものでした。松の木でできた荒格子は隙間が多く、冬には雨風が吹き込みます。望東尼自身が描いた『姫島獄中図』には、何枚も綿入れを重ね着し、壁に上着(被布、夜具風呂敷)を張り巡らせて寒さをしのぐ生々しい様子が描かれています。
しかし、そんな過酷な環境を救ったのが、島民たちの温かい真心でした。島民たちは窓越しにろうそくや食べ物を届け、小さな窓からは若い娘たちがうち群れて花を飾り、おばあさんと親しまれた望東尼を物心両面で支えました。彼女はこの小さな窓から見える鏡山や四季の移ろい、島民への感謝を多くの和歌に詠みました。「歌なくば 何に流さむ ゆくえなく なづむこころの 水のうき草」という歌が示す通り、和歌を詠むことこそが彼女の精神的な支えであり、生きる糧だったのです。
また、獄中で亡き同志たちの御霊を弔うため、カヤ(すすき)で自らの指を切り、その血でお茶碗にためた血墨で麻の布に般若心経を書き記すという壮絶なエピソードも残されています。これには、己の「赤き心(嘘偽りのない真心)」を亡き同志らに捧げたいという、彼女の並外れた信念が込められていました。
4. 劇的な救出作戦と、明治以降の顕彰活動
1866(慶応2)年9月、望東尼の恩義に報いるため、高杉晋作が放った部下6人による劇的な救出作戦が実行されます。部隊は偽の赦免状で役人を欺き、望東尼を牢から救出。歩くこともままならない彼女を抱え、追手を振り切って船で下関へと脱出させました。救出後、望東尼は下関で病に伏せる高杉晋作を看病しますが、高杉は間もなく死去。望東尼自身もその半年後の1867(慶応3)年11月、防府三田尻にて62歳でその激動の生涯を閉じました。
明治以降、彼女の功績は広く顕彰されるようになります。明治33年には姫島に「野村望東尼謫居地記念碑」が建立され、伊藤博文、山縣有朋、毛利元昭らが名を連ねました。昭和9年には黒田家や頭山満ら福岡藩関係者も顕彰に加わり、その精神は現代へと受け継がれています。
【編集後記・お知らせ】
谷川先生が学生時代に福岡市博物館所蔵の望東尼資料約600点をすべて精読し、涙で滲んだ手紙から彼女の生の息遣いを感じ取ったというお話は、一次史料に当たることの重要性を強く物語っていました。
今年、望東尼の没後160年を迎えるにあたり、各地域の房東会・敬勝会による記念行事が予定されています。11月6日には平尾山荘で「160年記祭」が、また11月25日~29日には福岡市美術館にて、谷川先生が所蔵される本邦初公開を含む貴重な関連資料の展示会が開催されます。ぜひ足をお運びいただき、幕末を毅然と生きた一人の女性の「赤き心」に触れてみてください。
以上
【質疑応答要旨】
1. 望東尼研究を始めた動機について
【質問】 学生時代から野村望東尼の研究をされているが、若い頃に本テーマを選んだ理由は何か。
【谷川先生回答】 大学の国史学科(日本史学科)在学中、家族で平尾山荘の隣に引っ越したことが直接のきっかけである。隣に住んでいた望東尼がどのような人物か興味を持ち、高杉晋作や平野国臣が自分の家の前を通ったかもしれないと想像してワクワクした。今で言う「歴女の走り」のような、身近な環境から生じた素朴な関心が研究の原動点である。
2. 望東尼サミットと行政の関わりについて
【質問】 前年の望東尼サミットに防府市や糸島市から市長が参加されていたのに、福岡市からの参加は副市長で市長は来ていなかったのはなぜだったのでしょうか
【谷川先生回答回答】 福岡市の中村副市長は望東尼関連の活動や山荘の保存に非常に協力的である。現在、老朽化が進む平尾山荘の修復に向けて調査員を派遣するなどの対応を進めてもらっており、実務面において非常に大きな力添えをいただいている。
3. 行方不明の映画『野村望東尼』について
【質問】 過去に婦人会などの主導で制作され、海外でも上映されたという映画『野村望東尼』のフィルムや脚本の所在は分かっているか。
【谷川先生答】 映画会社を含め徹底的に調査しているが、現時点でフィルムそのものは見つかっていない。今年は没後160年の節目でもあり、脚本や関連資料の片割れだけでも発見できれば大きな意義がある。婦人会の系譜団体やアーカイブなどのつてを含め、引き続き広く情報を募りたい。
4. 歌僧・大隈言道と勤王思想の繋がりについて
【質問】 望東尼は師の大隈言道に迷惑が及ばないよう配慮していたとされるが、言道の家系(清原氏・楠田氏・長野氏の系譜)を辿ると南朝の里や勤王思想の脈絡に繋がる。言道自身も根底では勤王思想を共有していたのではないか。
【谷川先生回答】 大隈言道は独自の境地を持つ「仙人」のような人物であり、自身は政治や勤王活動からは距離を置くスタンスをとっていた。後に望東尼の政治傾倒に対し「歌は良いが、そうした活動は良くない」と苦言を呈した記録もあり、言道自身は政治運動に関わらない思想の持ち主であったとみられる。ただし、指摘された周辺寺院や家系背景については、今後さらに資料調査を進めたい。
5. 史料精読の経験と没後160年記念展示について
【質問】 若き日に筑紫豊先生の指導を受け、福岡市博物館(当時の赤レンガ記念館)所蔵の望東尼資料約600点を精読した経緯について。
【谷川先生回答】 20代の頃、朝から晩まで古文書と向き合い目録を作成した。他人の書いた本ではなく、本人が書いた生の文字や、姫島から届いた涙で滲む手紙に直接触れたことで、一人の女性としての生き様に深く感動した。この時に作成した目録は現在も博物館で活用されている。なお、今年の11月25日〜29日に福岡市美術館で開催する展示会では、これらの研究に基づく本邦初公開の貴重資料を多数公開する予定である。
6. 姫島記念碑の建立時期と寄付者銅板の誤記修復について
【質問】 平尾山荘の碑(明治41年)よりも、姫島の「野村望東尼謫居地紀念碑」(明治33年)の方が建立が早いのはなぜか。
また、姫島の記念碑にある寄付者の銅板の「松山茂丸」「山縣有明」はそれぞれ「杉山茂丸」「山縣有朋」の誤記と思われるが。
【谷川先生回答】 明治24年、明治政府から望東尼に正五位が贈られた。長州出身の楫取素彦は内閣総理大臣の三条実美に託されて、昭憲皇太后、毛利家、三条家等からの援助金をもとに、同26年に防府の墓の改修を行った。同35年に姫島で建立された記念碑の寄付者名を見ると、五卿、毛利家に加えて薩長出身者が多く名を連ねているので、これも楫取等の働きかけがあったのではないか。一方、福岡では、明治41年になってようやく碑が建立され、翌年向陵会(現在の望東会の前身)が設立された。これは、維新の功労者への顕彰にやや遅れをとったといえるかもしれない。
なお、銅板に「松山茂丸(「杉」の異体字「杦」を「松」と間違えたか)とあった誤記については、昨年修復が行われた。 ご指摘いただいた銅板の「山縣有明」の誤記については、これまで誰も気付いていなかった。早速、糸島志摩望東会に修復を依頼することにする。