2026年5月浦辺登の近代史講座(6月20日)
「開国以降の日本 各地で起きる武士たちの反乱」
1. 開国にともなう混乱と不平等条約
日本はペリー来航により鎖国から開国へと舵を切ったが、250年間の鎖国による「無菌状態」から一転して様々な病原菌が流入し、多くの死者を出した。経済面では、従来の米の生産高を基準とする東洋の「銀本位制」から、欧米の「金本位制」への対応を迫られ、金安だった日本から大量の金が流出した。 明治新政府は財政難から太政官札を発行し、各藩に強制的な交換を迫ったが、この事実は歴史上あまり表に出ていない。また、不平等条約下で不法上陸する外国軍隊を日本側で裁くことができず、衝突事件の際には日本の武士たちが切腹することで防波堤となった。その死を恐れない姿は、後の大東亜戦争における特攻隊とも重なり、欧米列強を恐怖させた。
一般に幕末維新期の反乱としては戊辰戦争、佐賀の変、秋月の変、萩の変、神風連の変、西南戦争などが知られているが、新政府によって握りつぶされ、地方の郷土史に埋もれた事件が多々存在する。
- 花山院(かさのいん)隊偽官軍事件 公卿の花山院家理を首領に戴き、長州奇兵隊の生き残りらが九州各地の旧幕府代官所(天草富岡陣屋や宇佐四日市陣屋など)を襲撃して莫大な軍資金を奪った事件。博多商人の石蔵卯兵衛や咸宜園出身の長三洲らが関わったが、新政府はこの事件を隠蔽した。
- 相良総三偽官軍事件 倒幕の火種作りのため江戸市中で攪乱工作を行い、官軍の先鋒として「年貢半減」を掲げて民衆の協力を集めた相良総三らが、後に新政府から裏切られて「偽官軍」として処刑された事件。
- 長州奇兵隊脱隊兵騒動 戊辰戦争で功績のあった長州奇兵隊であったが、帰還後に恩賞もなく帰農を命じられた。軍資金に枯渇した長州藩において、不満を抱いた隊士が反乱を起こしたが、木戸孝允が指揮する藩の正規軍によって皆殺しにされた。新政府の身内による虐殺であるため、歴史の表から消し去られた。
- 明治四年 久留米藩難事件 長州奇兵隊脱隊兵の生き残りや大楽源太郎らが久留米藩に逃げ込んだ際、新政府の姿勢に不満を持つ久留米勤皇党が「維新のやり直し」を求めて決起を企てた。しかし、脱隊兵探索を名目に派遣された新政府軍により鎮圧され、久留米藩は資産や軍備を没収された。後に旧久留米藩の士族らは、福島県郡山市の安積開拓団として移住を余儀なくされた。
- 筑前竹槍一揆 明治6年、新政府による解放令や徴兵令、税制改革、米相場の操作による困窮に怒った10万〜30万人規模の農民が起こした大一揆であり、旧福岡藩の士族たちによって鎮圧された。
- 竹橋事件 西南戦争後、前線で命がけで戦った下級将校や近衛兵への恩賞がなく、予算の削減を迫られた一方で、上級将校や政府高官には多額の恩賞が与えられたことに憤慨して起きた近衛兵の反乱。天皇を守るべき近衛兵の反乱という不都合な史実として、山県有朋らにより戦後(GHQ占領期)まで隠蔽されていた。
3. 箱館戦争と赤十字精神の芽生え
箱館戦争で榎本武揚や大鳥圭介らが五稜郭に立てこもったのは、新政府によって徳川家の知行が400万石から70万石へ激減され、食い詰めた旧家臣たちを救うための「自治政府」を樹立するためであった。 この戦闘において、現在の福岡県小郡市出身の医師・高松凌雲は榎本軍の野戦病院長を務めた。凌雲はフランス留学時に学んだ「敵味方の区別なく治療する赤十字精神」を実践し、政府軍・旧幕府軍の双方を分け隔てなく治療した。この姿勢に感銘を受けた薩摩藩の黒田清隆らは、榎本や大鳥、凌雲らの国際的な知見をもつ人材を殺すのは惜しいと考え助命に奔走し、後の明治の近代化に彼らの能力を生かす道を開いた。
4. 結び:歴史に学ぶ意義
明治維新や戦後の占領期を経て、権力者によって「作られた歴史」や隠蔽された史実は今なお多い。歴史とは単なる年号の暗記ではなく、「なぜその事件や内戦が起きたのか」という事由を深く考えるためのものである。 例えば、現在の日本の食料自給率は公称38%とされるが、肥料の9割以上を海外に依存している実態を鑑みれば、実質は10%以下である。こうした現代の国防や食料問題などの課題に対しても、過去の歴史(対馬藩による朝鮮米輸入や糸島市の循環型農業のモデルなど)に学び、実態を直視して解決策を導き出す姿勢こそが、今求められている。
【主な質疑応答】
Q1高松凌雲の顕彰と食料自給率・肥料問題について
Q1:地元の偉人である高松凌雲の銅像を小郡駅前に建てるクラウドファンディングが目標に届かなかったが、別途寄付で建立する動きがある。このような人物が地元にいながら周知が足りなかったのは「もっと自分の町を知ろう」という点で反省すべきであり、今後は協力していきたい。
また、講演で触れられた「食料自給率38%(実態は10%以下)」に関連し、以前先生から伺った「米のぬか等の活用」による具体的な地域農業のモデルについて詳しくお話しいただきたい。
A浦辺先生:肥料の三元素(窒素・リン・カリ)を国内自給する試みとして、福岡市の下水再処理プログラムや、モデルケースである糸島市の循環型農業が挙げられる。糸島では、米作りの「ぬか」やブランド鶏の「鶏糞」を肥料に変えて野菜や果物を栽培し、さらに飼料用米で放牧豚(一貫山牧場)を育てるなど、地域一体の共同体を形成している。この農産物を直売所「伊都菜彩」で販売し現金収入を得る仕組みは、日本全国に広げるべきモデルである。
歴史を振り返ると、第一次世界大戦時に日本が獲得した南太平洋の島々のリン鉱石(海鳥の糞の化石)が当時の農業生産を支えたように、自給率や国防を語る上で肥料問題は不可欠である。
征韓論の背景や、江戸時代の対馬藩が朝鮮米を輸入して博多の対馬小路の蔵屋敷から大阪へ回した歴史を見ても、足元の食料事情を正しく知ることが重要である。
Q2:山県有朋が京都に遺した「無鄰菴」には、今もご子孫から匿名で調度品の寄付が毎年続いている。また、博多の石蔵酒造には、鐘崎三郎と親交の深かった郡島忠次郎の三番目の弟が養子に入っており、その歴史の繋がりを直方の向野堅一記念館等で確認した。
ところで、「秋月の変」の舞台である秋月の人々は、平成の合併で朝倉市になる際も独立を主張するほど極めてプライドが高い。その背景には、大友宗麟から逃れ黒田家に仕えた大蔵氏(秋月氏)の歴史、南朝の忠臣・五条頼元の墓所を守ってきた誇りがある。 浦辺先生は秋月をどう捉えているか。
A(浦辺先生) 秋月のプライドの高さや人間関係の難しさは地元でも有名である。秋月の変を捉える上では、単独の事件としてではなく、神風連の変、萩の変と「3つ全てが裏で繋がっていた」という全体の絵を見る必要がある。処刑された今村百八郎の最期を、後に黒龍会を結成する内田良平が見ていたことや、郡島忠次郎と黒龍会の繋がりなど、歴史を斜めに立体的に紐解いていくことで、当時の人々が徒党を組んで決起した背景が見えてくる。
Q3:戊辰戦争で最も利益を得たのはイギリスの金融資本家であり、倒幕軍は彼らにうまく利用されていたのではないか。日本の先哲たちもその構造に気づいていたはずだが、列強の思惑をどう利用しようとしたのか。結果として、武家よりも政商(商人)が一番成功したのではないか。
A(浦辺先生) 当時の先哲も国際情勢を見抜いていた。「堺事件」でフランス兵が暴れた背景には、幕府へ多額の融資や横須賀造船所建設を進めたフランスと、その同盟国であるロシアの南下政策(侵略の意図)があった。
小栗上野介の対仏接近に対し、勝海舟が「フランスと組めば大変なことになる」とイギリスを選択したこと、また箱館戦争の事後処理を高松凌雲や榎本武揚らがロシア公使館に頼んだことからも仏露の連携は明白である。 ロシアはフランスをけしかけて背後から利権を狙う戦略を持っていたため、当時の薩長がイギリスに付いた判断は正しかった。その後のロシアによる凄まじい清国侵略の歴史を鑑みても、あの局面でイギリスと組む選択をしたからこそ、日本は生き残ることができたと評価している。