一般社団法人 もっと自分の町を知ろう

定例講座要旨

2026年5月浦辺登の近代史講座(6月20日)

「開国以降の日本 各地で起きる武士たちの反乱」

1. 開国にともなう混乱と不平等条約

日本はペリー来航により鎖国から開国へと舵を切ったが、250年間の鎖国による「無菌状態」から一転して様々な病原菌が流入し、多くの死者を出した。経済面では、従来の米の生産高を基準とする東洋の「銀本位制」から、欧米の「金本位制」への対応を迫られ、金安だった日本から大量の金が流出した。 明治新政府は財政難から太政官札を発行し、各藩に強制的な交換を迫ったが、この事実は歴史上あまり表に出ていない。また、不平等条約下で不法上陸する外国軍隊を日本側で裁くことができず、衝突事件の際には日本の武士たちが切腹することで防波堤となった。その死を恐れない姿は、後の大東亜戦争における特攻隊とも重なり、欧米列強を恐怖させた。

2. 教科書に載らない武士・民衆の反乱

一般に幕末維新期の反乱としては戊辰戦争、佐賀の変、秋月の変、萩の変、神風連の変、西南戦争などが知られているが、新政府によって握りつぶされ、地方の郷土史に埋もれた事件が多々存在する。

  • 花山院(かさのいん)隊偽官軍事件 公卿の花山院家理を首領に戴き、長州奇兵隊の生き残りらが九州各地の旧幕府代官所(天草富岡陣屋や宇佐四日市陣屋など)を襲撃して莫大な軍資金を奪った事件。博多商人の石蔵卯兵衛や咸宜園出身の長三洲らが関わったが、新政府はこの事件を隠蔽した。
  • 相良総三偽官軍事件 倒幕の火種作りのため江戸市中で攪乱工作を行い、官軍の先鋒として「年貢半減」を掲げて民衆の協力を集めた相良総三らが、後に新政府から裏切られて「偽官軍」として処刑された事件。
  • 長州奇兵隊脱隊兵騒動 戊辰戦争で功績のあった長州奇兵隊であったが、帰還後に恩賞もなく帰農を命じられた。軍資金に枯渇した長州藩において、不満を抱いた隊士が反乱を起こしたが、木戸孝允が指揮する藩の正規軍によって皆殺しにされた。新政府の身内による虐殺であるため、歴史の表から消し去られた。
  • 明治四年 久留米藩難事件 長州奇兵隊脱隊兵の生き残りや大楽源太郎らが久留米藩に逃げ込んだ際、新政府の姿勢に不満を持つ久留米勤皇党が「維新のやり直し」を求めて決起を企てた。しかし、脱隊兵探索を名目に派遣された新政府軍により鎮圧され、久留米藩は資産や軍備を没収された。後に旧久留米藩の士族らは、福島県郡山市の安積開拓団として移住を余儀なくされた。
  • 筑前竹槍一揆 明治6年、新政府による解放令や徴兵令、税制改革、米相場の操作による困窮に怒った10万〜30万人規模の農民が起こした大一揆であり、旧福岡藩の士族たちによって鎮圧された。
  • 竹橋事件 西南戦争後、前線で命がけで戦った下級将校や近衛兵への恩賞がなく、予算の削減を迫られた一方で、上級将校や政府高官には多額の恩賞が与えられたことに憤慨して起きた近衛兵の反乱。天皇を守るべき近衛兵の反乱という不都合な史実として、山県有朋らにより戦後(GHQ占領期)まで隠蔽されていた。


3.
箱館戦争と赤十字精神の芽生え

箱館戦争で榎本武揚や大鳥圭介らが五稜郭に立てこもったのは、新政府によって徳川家の知行が400万石から70万石へ激減され、食い詰めた旧家臣たちを救うための「自治政府」を樹立するためであった。 この戦闘において、現在の福岡県小郡市出身の医師・高松凌雲は榎本軍の野戦病院長を務めた。凌雲はフランス留学時に学んだ「敵味方の区別なく治療する赤十字精神」を実践し、政府軍・旧幕府軍の双方を分け隔てなく治療した。この姿勢に感銘を受けた薩摩藩の黒田清隆らは、榎本や大鳥、凌雲らの国際的な知見をもつ人材を殺すのは惜しいと考え助命に奔走し、後の明治の近代化に彼らの能力を生かす道を開いた。

4. 結び:歴史に学ぶ意義

明治維新や戦後の占領期を経て、権力者によって「作られた歴史」や隠蔽された史実は今なお多い。歴史とは単なる年号の暗記ではなく、「なぜその事件や内戦が起きたのか」という事由を深く考えるためのものである。 例えば、現在の日本の食料自給率は公称38%とされるが、肥料の9割以上を海外に依存している実態を鑑みれば、実質は10%以下である。こうした現代の国防や食料問題などの課題に対しても、過去の歴史(対馬藩による朝鮮米輸入や糸島市の循環型農業のモデルなど)に学び、実態を直視して解決策を導き出す姿勢こそが、今求められている。

【主な質疑応答】


Q1
高松凌雲の顕彰と食料自給率・肥料問題について

Q1地元の偉人である高松凌雲の銅像を小郡駅前に建てるクラウドファンディングが目標に届かなかったが、別途寄付で建立する動きがある。このような人物が地元にいながら周知が足りなかったのは「もっと自分の町を知ろう」という点で反省すべきであり、今後は協力していきたい。
 また、講演で触れられた「食料自給率38%(実態は10%以下)」に関連し、以前先生から伺った「米のぬか等の活用」による具体的な地域農業のモデルについて詳しくお話しいただきたい。

A浦辺先生:肥料の三元素(窒素・リン・カリ)を国内自給する試みとして、福岡市の下水再処理プログラムや、モデルケースである糸島市の循環型農業が挙げられる。糸島では、米作りの「ぬか」やブランド鶏の「鶏糞」を肥料に変えて野菜や果物を栽培し、さらに飼料用米で放牧豚(一貫山牧場)を育てるなど、地域一体の共同体を形成している。この農産物を直売所「伊都菜彩」で販売し現金収入を得る仕組みは、日本全国に広げるべきモデルである。
 歴史を振り返ると、第一次世界大戦時に日本が獲得した南太平洋の島々のリン鉱石(海鳥の糞の化石)が当時の農業生産を支えたように、自給率や国防を語る上で肥料問題は不可欠である。
 征韓論の背景や、江戸時代の対馬藩が朝鮮米を輸入して博多の対馬小路の蔵屋敷から大阪へ回した歴史を見ても、足元の食料事情を正しく知ることが重要である。

Q2山縣家・石蔵家の秘話と秋月の人々の誇り

Q2:山県有朋が京都に遺した「無鄰菴」には、今もご子孫から匿名で調度品の寄付が毎年続いている。また、博多の石蔵酒造には、鐘崎三郎と親交の深かった郡島忠次郎の三番目の弟が養子に入っており、その歴史の繋がりを直方の向野堅一記念館等で確認した。
 ところで、「秋月の変」の舞台である秋月の人々は、平成の合併で朝倉市になる際も独立を主張するほど極めてプライドが高い。その背景には、大友宗麟から逃れ黒田家に仕えた大蔵氏(秋月氏)の歴史、南朝の忠臣・五条頼元の墓所を守ってきた誇りがある。 浦辺先生は秋月をどう捉えているか。

A(浦辺先生) 秋月のプライドの高さや人間関係の難しさは地元でも有名である。秋月の変を捉える上では、単独の事件としてではなく、神風連の変、萩の変と「3つ全てが裏で繋がっていた」という全体の絵を見る必要がある。処刑された今村百八郎の最期を、後に黒龍会を結成する内田良平が見ていたことや、郡島忠次郎と黒龍会の繋がりなど、歴史を斜めに立体的に紐解いていくことで、当時の人々が徒党を組んで決起した背景が見えてくる。

Q3戊辰戦争における列強の思惑と日本の選択

Q3戊辰戦争で最も利益を得たのはイギリスの金融資本家であり、倒幕軍は彼らにうまく利用されていたのではないか。日本の先哲たちもその構造に気づいていたはずだが、列強の思惑をどう利用しようとしたのか。結果として、武家よりも政商(商人)が一番成功したのではないか。

A(浦辺先生) 当時の先哲も国際情勢を見抜いていた。「堺事件」でフランス兵が暴れた背景には、幕府へ多額の融資や横須賀造船所建設を進めたフランスと、その同盟国であるロシアの南下政策(侵略の意図)があった。
 小栗上野介の対仏接近に対し、勝海舟が「フランスと組めば大変なことになる」とイギリスを選択したこと、また箱館戦争の事後処理を高松凌雲や榎本武揚らがロシア公使館に頼んだことからも仏露の連携は明白である。 ロシアはフランスをけしかけて背後から利権を狙う戦略を持っていたため、当時の薩長がイギリスに付いた判断は正しかった。その後のロシアによる凄まじい清国侵略の歴史を鑑みても、あの局面でイギリスと組む選択をしたからこそ、日本は生き残ることができたと評価している。

 

2026年5月16日ゲスト講座講演会要旨:「西郷隆盛を追い求めて」 井川 聡氏

【講演の総括】
本講演では、講師の井川聡氏が、これまでに世に送り出してきた頭山満に関する著作や、現在執筆中である西郷隆盛の研究を踏まえ、日本人が受け継いできた「精神文化の土台」とその系譜を解き明かした。

講演の主題は、激動の歴史の中で脈々と受け継がれてきた「魂の系譜」である。維新の英傑・西郷隆盛から、その精神を継いだ「玄洋社」の頭山満、頭山を師と仰ぎ独自の哲学を築いた中村天風、そして現代においてその天風哲学を体現し世界を席巻する大谷翔平選手へと至る、壮大な魂のリレーを紐解く。本講演の趣旨は、この系譜の原点にある西郷隆盛の普遍的な魅力を現代の視点から改めて浮き彫りにし、物質的豊かさの陰で精神の飢餓に直面する現代日本人が、未来へ進むべき道標(道)を見出すことにあった。

【要 旨】
1.イントロダクション:歴史と精神文化の重要性
歴史とは、その国における最大の財産である。歴史を失った国は消えてなくなる。日本は2686年続く世界最古の国家であり、私たちは先達がどのような苦労をしてこの国を護り、命を繋いできたかを学ばなければならない。


歴史を学ぶということは、単なる過去の事実の暗記ではなく、「魂の共振」であり「魂の継承」である。先人の魂を受け取ることで精神文化の土台が確立されるが、現代日本は心が折れやすく、ゆらぎやすい。それは、この精神文化の土台を失いつつあるからである。西郷隆盛を追い求める旅は、現代日本人が失いかけている「日本人の誇りと背骨」を再発見する旅に他ならない。

2. 現代の英雄・大谷翔平に息づく「格」
現代において、この精神文化の「格」を最も鮮やかに示しているのが、メジャーリーガーの大谷翔平選手である。彼の偉大さは、本塁打の飛距離や投球のスピードといった技術的・物質的な次元に留まらない。大谷選手の真の価値は、「人間には無限の可能性があり、人はどう生きるべきか」を自らの姿で世に示している点にある。

彼は自己実現のためだけにバットを振っているのではない。常に「他がため(他者のため)」を念頭に置き、ファン、チーム、日本、そして未来の子供たちのために生きている。通訳の不祥事という、並の人間であれば心が折れ、集中力を乱されるような逆境にあっても、彼は微動だにしなかった。グラウンドのゴミを拾い、相手チームに一礼し、勝っても驕らず負けても荒まない。

この揺るぎないメンタルと品格、すなわち「人格王」と称される精神の源流を辿ると、一人の思想家に突き当たる。それが中村天風である。

3. 中村天風と大谷翔平を結ぶ哲学
大谷選手は日本ハム時代、栗山監督から愛読書を問われ「中村天風です」と答えている。彼は高校時代から天風の著作を読み、その人生哲学を吸収していた。 天風哲学の核心は、「人間の本体は肉体でも精神でもなく、霊魂(魂)である」という点にあり、「人間は魂を磨くために生きている」と説く。心が高ぶったり動揺したりするのは、自分の心でありながら自分で扱えていないからである。

大谷選手がどのような逆境でも心をコントロールできるのは、偶然でも天性でもなく、この天風哲学という強固な土台があるからである。「他がために生きると無限に強くなる」という天風の言葉を、大谷選手はそのまま体現している。 天風の教えに学んだ人物には、原敬、東郷平八郎、松下幸之助、稲盛和夫、さらには昭和天皇や長島茂雄など、各界の巨人が名を連ねるが、では、その中村天風を天風たらしめた「恩師」とは誰なのか。それが、福岡が生んだ大国士、頭山満である。


4.頭山満という存在と「魂の継承」

中村天風の精神の根底には、頭山満の魂が流れている。「天風」という名を授けたのも頭山である。頭山満という人物は、政治的な影響力だけでなく、何よりも「人を育てる力」において傑出していた。彼の元には、紹介状もない若者が次々と集まった。それは、彼が名誉や富、権力に一切囚われない「偉そうにしない偉い人」であり、常に自然体で揺るぎない心を持っていたからである。

天風が最も学んだのは、この頭山の「揺るぎなき心」であった。 そして、その頭山満が生涯「心の師」と仰ぎ、神棚の横に人形を置いて敬い続けた人物こそが、西郷隆盛である。ここに、西郷隆盛から頭山満、中村天風、大谷翔平へと至る、一本の太い「魂のリレー」が完成する。大谷選手の精神は、単なるスポーツマンシップではなく、西郷隆盛の「南洲精神」そのものなのである。

5.象徴的なエピソード:昭和14年の邂逅
頭山満がどれほど深い魂の磁力を持っていたかを示す象徴的な資料がある。
昭和
14年、富士山麓の御殿場にある頭山翁の別荘を、鹿児島から上京した一人の青年(奥田
栄穂氏、小学校教師)が訪ねた際の手記(『頭山満翁訪問記』)である。 青年は、ただひと目、憧れの頭山翁に会いたいという純粋な一念だけで、紹介状も用事もなく別荘を訪れた。


取り次いだ執事が用件を尋ねると、青年は「ただ一度、先生の謦咳に接したいだけです」と答えた。執事が奥へ確認に行くと、頭山翁から返ってきた言葉は驚くべきものであった。「何も用事がないなら、お会いくださるそうだ」。これこそが頭山満の本領である。頼み事がある者には会わず、純粋に会いたいという者には門を開く。 面会した青年が、かつて兄が頭山翁から書をいただいた、という話をすると、頭山翁は静かに「そういえば156年前に鹿児島から来た奥田という方に会ったことがあります」と応じた。亡き兄への最高の供養となり、青年は感激に震えた。

さらに青年が勇気を出して揮毫を頼むと、頭山翁は病気になってからは書かないと決めていると一度は断った。しかし、沈黙の後、青年がはるばる鹿児島から来たことを思いやり、「せっかくじゃから書いてあげよう」と筆をとった。 頭山翁が書いたのは、西郷隆盛の詩であった。達筆すぎて青年には読めなかったが、頭山翁が「これは西郷さんの詩なんだよ」と吟じて聞かせた。青年がよく見ると、詩の一節である「肝胆(かんたん)」の二文字が脱落していた。青年が気づいて顔をしかめると、頭山翁は全く気にせず、「おやおや、字が抜けていますね。脇に書き足してあげよう。私の書も偽物が出回っているそうだが、あんたのこれには間違えて書いた跡があるから、却って本物と分かってええよ」と笑った。

この車脱で天衣無縫、豪胆な姿は、西郷隆盛の魂のあり方そのものであった。青年は手記に「一生一際の大事であった」と記している。魂が魂を呼び寄せ、認め合う瞬間がそこにあった。

6.西郷隆盛の本質と「南洲精神」の源流

頭山満が受け継いだ西郷隆盛の精神とは何であったか。西郷は、明治維新の最大の立役者でありながら、権力や富に執着せず、最後は命をなげうって「敬天愛人」を貫いた。 西郷の精神の根底には「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなり」という思想がある。人間は自然の理(ことわり)に従って生きるべきであり、自分の利益(私欲)を優先すれば必ず失敗する。奪うのではなく与え、争うのではなく和する。これこそが、日本人が本来持っている精神の美しさである。

この魂の系譜は、戦時中に戦艦大和と運命を共にした福岡県出身の海軍大将・伊藤整一の自己犠牲の精神にも通じている。彼ら先達の「他がために命を捧げる」という強固な意志(礎)の上に、現在の日本が成り立っていることを、私たちは忘れてはならない。

7.  結び:井川講師からのメッセージ

現代日本は、物質的には非常に豊かになったが、心は満たされず、人間関係は希薄になり、孤独が広がっている。それは、効率やスピード、私欲ばかりを追い求め、最も大切な「魂の成長」を忘れてしまっているからである。

経済の無限の成長は不可能であるが、天風が説いたように「魂の無限の成長」は可能である。魂を磨くということは、特別な修行をすることではない。日々の生活の中で、愚痴を言わず、怒らず、恐れず、他者を思いやり、自らを律して明るく生きること、その積み重ねである。 西郷隆盛、頭山満、中村天風、そして大谷翔平へと受け継がれてきた「魂のリレー」は、今を生きる私たち一人ひとりにも繋がっている。

私たちもまた、この国を支える「石垣の石」であり、次世代への「礎(いしずえ)」とならなければならない。 私が最も伝えたい言葉、それは頭山満翁の遺したこの言葉に尽きる。

「人間は魂さえ磨いていればよい。他は何もいらん」

私自身も、人生の最後の瞬間まで、日本の礎石として魂を磨く作業を続けていきたい。皆様もぜひ、自らの魂を磨き、次代へ美しい日本を繋ぐ「礎(いしずえ)」となっていただきたい。

以上

対談 井川聡先生&浦辺登会長

【浦辺登会長】
今の井川先生のご講演で、頭山満翁の別荘に西郷隆盛の人形が飾られていたというお話がありました。実は、あの人形の作者を巡って、私に失敗談があります。
あの西郷隆盛の人形(博多人形)の作者について、頭山満翁の孫である頭山立国(たつくに)氏に「誰が作った博多人形ですか」と直接尋ねてみたのです。すると立国氏から「あんたは一体、何を聞いとるんだ」と一喝されてしまいました。
立国氏が言うには、「おじいさん(頭山満)は、西郷隆盛の『精神』に手を合わせていたんだ。人形の作者が誰か、などという技術的なことではなく、その奥にある魂を拝んでいたんだよ」と。私は、頭山満翁が何を見ていたのかという本質を理解できていなかったと猛省しました

【井川聡先生】
まさに「魂の共振」ですね。人形が本物か偽物か、誰の作かなどは関係ない。頭山翁は西郷隆盛の精神そのものを敬っていた。その本質を突いた、立国氏の素晴らしいお言葉だと思います。 頭山翁自身、非常に謙虚な方で、「自分らは草の根の勤皇(国家のために尽くす者)に過ぎず、宮中に上がるような人間ではない」と、生涯謙虚さを崩しませんでした。

【浦辺登会長】
頭山満翁は、明治天皇からお召し(お呼び出し)があっても、お断りされていたそうですね。

【井川聡先生】
はい。天皇陛下への畏れ多さや、自分の立場を弁えた上での「恐れ多い」という気持ちの表れです。 戦後に中村天風が昭和天皇の倫理教育(ご進講)に携わったのも、この頭山翁と天皇陛下との深いつながり(畏敬の念)があったからこそ、その流れで実現したのだと思います。今の時代の政治家のように、天皇や国家の権威を利用して自分の権力を誇示しようとする輩とは、精神のスケールが全く違います。

【浦辺登会長】
頭山翁は非常に周りへの気配りができる人だったと聞きます。ある時、お嫁さん(息子の妻)と歩いていた際、お嫁さんが重い荷物を持って必死についていくと、頭山翁はササッと先に歩いて角を曲がり、人が見えなくなったところで「持ってやろう」と荷物を持ってあげたそうですね。

【井川聡先生】
そうです。人が見ている前ではあえて厳しく、あるいは威厳を持って接しているように見せて、ふと二人きりになったり人が見えなくなったりすると、深い優しさを見せる。常に相手の立場に立ち、どうすれば相手にプレッシャーを与えないかを考えて行動されていました。

参加者からの質問

Q(参加者):私の祖父が中野正剛と親交があり、家に色紙があります。また、父方には頭山満の掛け軸もあります。お伺いしたいのは、頭山満翁が幼少期に「筒井家」という親戚筋に里子に出され、そこで育てられたという話についてです。この筒井家は、糸島(現在の前原や桜井のあたり)にルーツがあるという説は本当でしょうか。

A(井川聡先生): 頭山満翁の元の本姓は「筒井」であり、お母さん方の「頭山」の籍に入って頭山満となりました。ただ、その筒井家が糸島にルーツを持つかどうかという詳細な歴史までは、残念ながら私は存じ上げておりません。

A(浦辺登会長):玄洋社社長を務めた進藤一馬氏の親戚筋にあたる「代(だい)氏」などが糸島(雷山周辺)の出身ですので、その周辺で玄洋社や頭山家、筒井家との深いつながりや親戚関係があった可能性は十分に考えられますね。


A(井川聡先生): なるほど。糸島への旅や訪問の記録、当時の写真(おばあさん達に囲まれた写真など)が残っているのも、そうした親戚筋やルーツを訪ねてのものだったと考えると合点がいきますね。

【結びのメッセージ(井川聡先生)】

私は最初から西郷隆盛を追いかけていたわけではありません。地元(福岡)の広田弘毅や中野正剛、緒方竹虎といった先人たちの生き方に惹かれ、彼らの背後を辿るうちに頭山満に突き当たり、さらに頭山満の精神の源流を遡ることで、西郷隆盛という存在に導かれました。 つまり、「日本人の精神文化の源流は西郷隆盛にある」ということです。

現代日本は物質的には豊かですが、心が非常に貧しくなっています。それは人間が「経済(私欲)」を土台にして生きているからです。しかし本来は、哲学や歴史、文化といった「精神(魂)」の土台の上に人間は生きるべきです。 経済の成長には限界がありますが、魂の成長には限界がありません。西郷や頭山が示した「他がために生きる精神(敬天愛人)」を取り戻すことこそが、日本再生の鍵です。

また機会があれば、今度は「西郷隆盛特集」として、さらに深くお話しできればと思います。

2026年5月浦辺登の近代史講座(5月16日)

「開国以後の日本 不平等条約に苦しむ日本」


1. はじめに
浦辺先生は、本題に先立ち、厚生労働省に保管されている旧陸海軍の「軍歴証明書」に関する自身の西日本新聞429日掲載のコラムや体験を紹介した。空襲によって役場が焼失し戸籍を失った人々が、先祖の情報を確認する手段として軍歴証明書が極めて有効であるという実例を挙げ、その歴史的・個人的な意義を強調した。また、頭山満を巡る昭和天皇の厚遇とその事実が歴史記録から意図的に削除されていた研究などに触れつつ、幕末から明治期にかけての外交と経済の苦闘の歴史へと話を展開した。


2.
開国と不平等条約がもたらした感染症と外交の危機

江戸時代の約250年間、日本は鎖国という一種の「無菌状態」にあったが、開国と同時に諸外国からコレラなどの感染症が侵入した。耐性のない日本人が数万人規模で死亡する惨事となったが、欧米列強は不平等条約を武力で締結させ、さらに日本による検疫を拒否した。中浜東一郎(中浜万次郎の息子)らの医師が検疫を試みても、野蛮な国に検疫ができるかと激しく拒絶される理不尽な状況であった。また、イギリスによる清国の阿片侵略を日本の武士階級が上海などで目撃していたため、日本への阿片持ち込みは水際で厳しく阻止され、阿片による侵略は免れた。先人たちは主権を守り、条約改正に向けて日清戦争などを経ながら懸命の努力を続けた。


3.
捕鯨船の補給港要求と日本の資源

条約締結における欧米の真の目的は、太平洋に進出した捕鯨船の補給港の確保であった。当時、欧米の捕鯨は鯨油のみを目的とし肉を投棄していたのに対し、日本はクジラを余すところなく利用していたため、現代の欧米による日本の捕鯨批判は歴史的に見て矛盾していると指摘した。欧米船は燃料として質が良い「九州産の石炭」や水、新鮮な野菜などの食料補給を強く要求した。これはオランダ経由の情報で九州産の石炭が高カロリーであることを知っていたためである。また、上陸や居留地の設置、自由散歩が要求され、漂流民の送還も行われた。実際には、沿岸の農漁民が捕鯨船と極秘裏に物々交換を行うなどの接触が持たれていた。


4.
世界との為替格差と幕末の通貨混乱・贋金づくり

開国当時、日本は世界の金銀の交換比率を知らなかった。日米間で「メキシコドル銀貨4枚=1分銀12枚」と定めたが、国内では「1分銀12枚=金小判3枚」であり、世界市場では「金小判3枚=メキシコドル銀貨12枚」に相当した。この歪みにより、外国人が銀貨を金小判に換えて海外へ持ち出すだけで資産が3倍に増える現象が起き、大量の金が流出した。咸臨丸のアメリカ人水夫もこれで一儲けした。 さらに幕末の財政難から各藩で「贋金づくり」が横行した。金銀の含有量がバラバラなため両替商は藩ごとに独自の取引レートを設定し、欧米からもクレームが相次いた。特に薩摩藩による天保通宝の偽造は現代の価値で約750億円にのぼるとされる。また、原価の低い「名目通貨」が流通し、農民が絹や茶などの物産を不当に買い叩かれる事態も発生した。各藩はこうして得た資金を討幕の軍資金に充てており、島崎藤村の『夜明け前』にもその困窮が描かれている。これらの混乱に対し、勘定奉行の小栗上野介らが粘り強い交渉を行い、交換比率の改定に尽力した。


5.
治外法権の弊害と先人たちの切腹

不平等条約における最大の欠陥は、外国人の犯罪を日本側で裁けない治外法権であった。これが原因で多くの悲劇が生まれた。「長崎イカルス号事件」では、泥酔したイギリス水兵2名が福岡藩士の金子才吉に殺害された。金子は拝領した金時計をイギリス人士官に騙し取られ、返還を拒否された恨みから犯行に及び、その後42歳で切腹した。「神戸事件」では、備前藩の行列を横切ったフランス水兵を藩士の滝善三郎らが槍で威嚇しフランス兵が負傷した。外交問題化を避けるため、滝は全責任を負って32歳で切腹した。「堺事件」では、堺を警備していた土佐藩兵が、乱暴を働くフランス水兵11人を射殺・斬殺した。フランス側から処罰を求められ、隊長以下20名が名乗り出てフランス側の面前で次々と切腹を遂げ、11人目でフランス側が恐れをなして中止を申し出た。この事件は森鴎外の小説『堺事件』に描かれている。


6.
明治新政府の財政難と福岡藩の贋札事件

明治新政府が発足した当時、政府には資金がなく、国家の統一のために不換紙幣である「太政官札」を発行した。新政府は各藩に対し強制的に割り当て、代わりに江戸時代の金銀貨を提出させた。この要求に対し、資金難の福岡藩は「福岡藩の贋札事件」を起こした。城内で太政官札を密造し、それを使って北陸や北海道で物産を買い占め、大坂の市場で売却して本物の正貨に換えて政府に上納していたのである。これが露見し福岡藩の役人たちが処罰された。一方、東北の諸藩などは土地を物納し、これが「白河以北一山百文」という言葉を生む契機となった。これら経済の混乱を収拾するため、大隈重信が尽力し、金本位制(1円金貨)を創設して通貨の安定と近代化への道筋をつけた。大隈はイカルス号事件で疑われた栗野慎一郎の釈放を黒田の殿様は留学を後押しした。


7.
結びと現代への問いかけ

浦辺先生は、幕末から明治の転換期において、日本が植民地化の危機に瀕した際、自らの命を犠牲にして国家の独立を守ろうとした先人たちの存在を強調した。金子才吉、滝善三郎、土佐藩兵の凄惨な切腹といった一途な犠牲精神が、外国側に日本人の恐るべき覚悟を植え付け、全面的な侵略を防ぐ防波堤となったのである。浦辺先生は、現代を生きる我々自身がもし当時の当事者であったならば、同じように国家のために全責任を負って命を差し出す覚悟が持てるかを問いかけ、先人たちへの深い追悼の意を表して講演を締めくくった。


【主な質疑応答】

Q: 福岡藩の「太政官札・贋札事件」が、明治新政府による「見せしめ(イジメ)」とされる内情を教えてください。
A
: 当時は福岡藩だけでなく広島藩など他藩も同様に贋札を作っていましたが、処分されたのは維新の主流(時代の波)に乗り遅れた福岡藩だけでした。さらに、裁判記録上の主犯「山本一太」という人物が藩の武士名簿に存在しないことなどからも、新政府による謀略や見せしめの側面が強かったと考えられます。


Q2:
福岡藩が新政府(松方正義)から厳しく目をつけられる一因となった、日田天領での「公金棒引き事件」とは何ですか?

A
: 幕末の転換期、薩摩の松方正義が日田の陣屋(天領)の公金を押さえに急行した際、一足先に博多商人が乗り込んで福岡藩関連の借金を棒引き(ゼロに)させていました。この先を越された(出し抜かれた)一件が、新政府が福岡藩を懲らしめる大きな引き金になったという逸話が残っています。


Q3:
明治の日本は、なぜ戦争(日清・日露)を経なければ不平等条約の改正(主権回復)を勝ち取れなかったのですか?
 A3: 当時の国際社会では言葉の交渉だけでは通用せず、武力や「力」を示すことでしか列強と対等な交渉のテーブルにつけなかったためです。ただしこれは侵略目的ではなく、日本の独立を守るための「やむにやまれぬ防衛的選択」であったと言えます。


Q
: 幕末の為替格差(金銀比率の罠)による混乱は、現代の身近な事例で例えるとどのようなものですか?

A4:
現代の「日本の500円玉と韓国の500ウォン」の自動販売機不正悪用問題と同様です。サイズや重量の類似(格差やシステムの隙)を突いて利益を得ようとする人間心理や混乱の構図は、幕末の為替問題も現代の事例も本質的に同じです。


Q5:
教科書では語られない「張作霖爆殺事件」や「朝鮮銀行」のリアルな一面とは何ですか?

A5:
張作霖爆殺は関東軍の独走だけでなく、日本側との条件交渉を彼が何度も破り、日本に不利益をもたらしたことへの報復という側面が記録にあります。また、朝鮮銀行は設立当初「日本人と朝鮮人を完全に同等に扱い、差別をしない(同じ待遇で迎える)」という方針を明言して運営されていました。


Q6:
良質な石炭資源(筑豊など)に恵まれた北部九州が、世界のエネルギー市場で主導権を握り続けられなかったのはなぜですか?

A6:
明治初期に海軍が炭田を独占したことが初期の民間産業の発展を阻害しました。その後、伊藤博文らの尽力で民間に開放され、鉄道敷設(直方〜若松)や八幡製鉄所の誘致で大発展を遂げましたが、その後の石炭から石油への「エネルギー革命(時代の波)」により衰退を余儀なくされました。


Q7:
幕末の通貨混乱期から現代まで変わらない、海外から見た「日本人の最大の強み」とは何ですか?

A7:
外交的・政治的混乱に晒されても失われない「民度の高さと誠実さ(国民的信用)」です。この高い信用こそが、歴史的に見ても日本の経済や通貨の安定を根底で支える最大の財産です。

2026年4月浦辺登の近代史講座(4月11日第2部)

「咸宜園と幕末・明治維新」

本講座では、昨年1129日に当法人の歴史ツアーで訪問した、天領日田の江戸後期の私塾「咸宜園(かんぎえん)」と、その教育が幕末・明治維新に与えた影響について浦辺先生から日本の近代化に果たした役割などについてお話しいただいた。

結論から言えば、咸宜園は単なる地方の学問所ではなく、日本の近代国家形成、とりわけ教育制度や人材育成に大きな影響を及ぼした重要な拠点であった。

咸宜園は、豊後日田の儒学者である廣瀬淡窓によって開かれた私塾である。淡窓は商家に生まれたが、病弱であったため家業を弟に譲り、自らは学問の道に進んだ。その思想形成に大きな影響を与えたのが、福岡の儒学者亀井南冥のもとでの修学経験である。南冥は「学問は世のため人のためにあるべき」という実学重視の思想を持ち、これが咸宜園教育の根幹となった。

咸宜園の最大の特徴は、従来の身分制社会の枠を超えた開放的な教育制度にある。「三奪(さんだつ)」と呼ばれる理念では、身分・年齢・学力を問わず、学びたい者は誰でも受け入れるとした。また「奪席」という制度では、塾生同士が競争し、実力に応じて席次が変動する仕組みを採用していた。さらに、成績評価には学力だけでなく品行や協調性も含まれ、「月旦評」として総合的に人物を評価した。これは現代の人間教育や人格教育にも通じる先進的な仕組みである。

このような教育環境のもと、咸宜園からは多くの優れた人材が輩出された。代表的な門弟としては、幕末の蘭学者高野長英や、明治政府の軍制改革を主導した大村益次郎がいる。彼らはそれぞれの分野で近代日本の礎を築いた人物であり、咸宜園の教育が実社会で活きたことを示している。

さらに注目すべきは、咸宜園の教育が明治期の国家制度にも影響を与えた点である。咸宜園出身の儒者長三洲は、明治政府の文部省に入り、日本の義務教育制度の整備に関わった。彼は咸宜園の教育理念を取り入れ、生徒による清掃や給食配膳、自治活動、さらには生活態度を含めた評価制度を導入した。これは現在の日本の学校教育の原型とも言えるものであり、咸宜園の思想が制度として結実した例である。

一方で、咸宜園の門弟たちは幕末の政治動乱にも深く関与している。例えば、咸宜園で学んだ人々の中には長州奇兵隊に参加した者や、各地の勤皇運動に関与した者も多い。また、明治初期には久留米藩難事件のような騒動にも関係者が関与し、維新後の政治的不安定さの中で活動していたことが紹介される。さらに、福島県の安積開拓に参加した人々の中にも咸宜園の影響を受けた者が含まれており、日本の地方開発にもその人的ネットワークが寄与していた。

また思想的な系譜にも言及された。亀井南冥の門弟には、後に思想家や活動家を輩出する流れがあり、例えば高場乱の人参畑塾からはアジア主義者が育った。さらにその系譜は玄洋社や黒龍会といった団体にもつながり、近代日本の対外思想にも影響を与えたとされる。

このように、本講座では咸宜園を単なる教育機関としてではなく、「人材育成の拠点」と「思想の源流」として位置付けてた。そこから輩出された人材が、政治・軍事・教育・思想といった各分野で活躍し、日本の近代化を支えたという構図が示された。

まとめとして、咸宜園の意義は三点に集約された。第一に、身分を超えた開かれた教育を実践した先進性。第二に、実社会に役立つ人材を育成した実学主義。第三に、その教育理念が明治国家の制度や思想にまで影響を与えた歴史的価値。

すなわち咸宜園は、近代日本の「人づくり」の原点の一つであり、その精神は現代にも通じる普遍的意義を持っていると言えるとし、浦辺先生は世界遺産として登録されるべき文化的価値があると評価した。

【主な質疑応答】

Q1:実際に咸宜園を訪れた感想と、今後の活かし方については?
A: 咸宜園では、学芸員の方が小学生にも分かりやすく説明してくださり、館長も非常に熱意に溢れていました。広瀬淡窓の教えが今も受け継がれていることを実感します。福岡の「亀井塾」などとも連携し、日本遺産や世界遺産を目指す遺産群としてもっとメジャーにしていくべきだと考えています。

Q2:長崎にも多くの宝(歴史的資産)があるのに、なぜ地元長崎は気づかないのでしょうか?
A: 一昨年当法人の講座に来ていただいたゲスト講師の長崎の歴史研究者の松尾龍之助さんも「なぜ長崎の人間は気づかんのか」と常に仰っています。福澤諭吉が砲術を学んだのも長崎ですが、慶應義塾の人も意外と気づいていません。中の人が気づかない場合は、外側からつつくのが一番いい方法だと思います。

Q3:天領であった咸宜園に、幕府の旗本の指定などは来なかったのですか?
A: 代官の息子が入学した例はあります。しかし、咸宜園は身分制度を排した実力主義だったため、成績が悪いと代官から「なぜうちの息子がこんな成績なんだ」とクレームが来ました。淡窓の弟の旭荘などは、それに嫌気がさして大阪へ行ってしまったほどです。それほどレベルの高い競争社会でした。

Q4:咸宜園は教育機関を超えて、近代の民主社会モデルのように進んでいたのでは?
A: まさにその通りです。良いところを制度に組み込んでいました。大村益次郎なども咸宜園を経て長崎へ行くなど、ここを通過点として進んでいった人が多い。当時の日本において、非常に進みすぎた場所であったと言えます。

Q5:江戸時代の日本の識字率は、世界的に見ても高かったのでしょうか?
A: ヨーロッパより上だったでしょう。日本では「読み書き」だけでなく、講談や浪曲を通じて倫理観を学ぶ「耳学問」の普及率が群を抜いていました。字が読めなくても、耳で世の中の動きを覚えてトップに立つような人物(伊藤伝右衛門など)もいたのが日本の特徴です。

Q6:なぜ日本だけがアジアの中で突出して近代化に成功したのでしょうか?
A: 日本は教育先進国だったからです。幕末には既に、オランダ語を通じて西洋の言葉に「文法」があることを理解し、日本語に置き換える作業ができていました。ペリーが来た時には既に言葉の置き換えがほぼ完成しており、相手が何を言っているか理解できていた。この知的基盤が非常に大きかったのです。

Q7:咸宜園に女性は入学できたのでしょうか?
A: 入学できました。尼僧などが学んでいた記録があります。ただし、男子と一緒の合宿はできないため、通学という条件でした。「身分・年齢・学歴」を問わない「三奪」に加え、「性別」も問わない姿勢は非常に先進的でした。

Q8:長崎の「上野彦馬」が咸宜園に馴染めなかったという話を聞いたことがありますが?
A: 彼は化学や数学、蘭学が好きだったので、咸宜園の教育(漢学中心)とは合わなかったのかもしれません。しかし、彼のような異才が一度は咸宜園の門を叩いたということ自体、当時の咸宜園の存在感の大きさを示しています。人によって合う合わないはあっても、教育機関としての格は最高峰でした。

 

2026年4月浦辺登の近代史講座(4月11日第1部)

「開国以前の日本  ペリー来航と通商条約

本講座は、1853年のペリー来航を単なる「開国のきっかけ」としてではなく、当時の国際情勢と日本国内の変化の中で必然的に生じた歴史的転換点として捉え、その本質を明らかにするものとなった。

講師は、まず前提として、江戸時代後期の日本は決して静止した社会ではなかったとした。幕藩体制のもと約300の藩による統治が続いていたが、武士階級の形骸化や商人の台頭、身分制度の弛緩など、内部から変化が進んでいた。また、オランダとの交易を通じて蘭学が流入し、西洋の知識や世界情勢を理解する素地も形成されていた。すなわち、日本は完全に閉ざされた国家ではなく、「限定的に世界と接続された国家」であった。

一方、世界に目を向けると、欧米列強はアジアへの進出を加速させており、清国はアヘン戦争によって大きく弱体化していた。このような国際環境の中で、日本は太平洋航路の補給拠点として、また新たな市場として注目されていた。したがってペリー来航は、偶発的な出来事ではなく、国際構造の中で必然的に生じたものであったとした。

講義では特に、ペリー来航に関する通説の修正がなされた。一般にはアメリカから直接来航したと理解されがちであるが、実際には上海や沖縄を拠点とした軍事的行動であり、日本は戦略的拠点として位置付けられていた。また、いわゆる「白旗問題」に象徴されるように、ペリーの外交は平和的交渉ではなく、武力を背景とした恫喝的なものであった点も重要であるとした。

しかしながら、日本側も一方的に押されたわけではない。オランダ通詞を中心とした交渉体制や、漂流民などを通じた情報収集など、一定の外交能力を有していた。また庶民レベルでは黒船見物が娯楽化するなど、社会は柔軟に対応していた点も興味深い。

その後、日本は日米和親条約、さらに日米通商条約を締結するに至る。これらの条約は、治外法権や関税自主権の欠如といった不平等な内容を含んでいたが、講義ではこれを単なる「敗北」とは捉えない視点が提示された。すなわち、日本は清国の失敗を踏まえ、軍事的衝突による壊滅的な結果を回避するため、あえて条約を受け入れたのである。
 
その中でも最も重要な点が「阿片問題」である。通商条約の原案には阿片貿易に関する条項が含まれていたが、日本はこれを明確に拒否した。清国において阿片が国家崩壊を招いた実態を認識していた日本にとって、阿片の流入は絶対に避けるべきものであった。この判断は、不平等条約を受け入れる一方で国家の根幹を守
るという、極めて戦略的な選択であったと評価できる。

さらに、開国は経済や外交だけでなく、感染症の流入という新たな脅威ももたらした。長期間「無菌状態」に近かった日本社会は外来の病に対する耐性を持たず、多くの犠牲を伴うこととなった。この点からも、開国は単なる進歩ではなく、大きなリスクを伴う転換であったことが理解できる。

以上を踏まえ、本講座は以下の通り結論づけた。すなわち、日本は外圧に屈したのではなく、限られた選択肢の中で「何を守るべきか」を見極め、主体的に判断した。不平等条約という形で一部の主権を譲りながらも、阿片の流入を阻止し、国家の健全性を維持した。この選択こそが、その後の明治維新と近代国家への道を切り開いたとした。

講師は、歴史を単なる出来事の連続としてではなく、「意思決定の積み重ね」として捉える重要性を示した。トランプ関税や中国からの圧力が強まる現代においても、外圧と向き合いながら何を守るのかという問いは変わらない。本講義はその示唆を与えるものとなった。

【Q&A】
Q1 南北戦争時の武器商人が上海から日本に武器を流したとのことだが、トーマス・グラバーだけなのか?

A1 グラバーだけではありません。多数の商人が関与しています。中には南北戦争で敗れた南軍の人間が上海に渡り、商売として武器取引を行っていた例もあります。戦争に負けても利益機会があれば動くという商人が、上海を拠点に多数存在していました。



Q2 
ペリー来航において、シーボルトが同行していたら歴史は変わっていたのか?またペリーはシーボルトの影響を受けていたのか?

A2 ペリーはシーボルト個人に依存していたわけではなく、すでにヨーロッパで出版された「日本誌」などを通じて、日本に関する情報を十分に得ていました。一方で日本側は世界情勢の把握が不十分で、特に幕府は情報を十分に活用できていませんでした。この情報格差が大きな要因です。



Q3
 
当時、日本の武士たちはなぜ上海に行っていたのか?

A3 主目的は武器や船の購入です。各藩の武士が上海に赴き、欧米商社と交渉して軍備を整えていました。その過程で、アヘンに蝕まれた中国の現状を目の当たりにし、強い危機感を抱きました。海外では藩の枠を超えて「日本人」として連携する意識も生まれていました。



Q4 
幕末を「麻薬戦争」という視点で研究している学者や文献はあるか?

A4 特定の研究者はほとんどいません。ただし関連する文献は存在しており、特に過去に出版された資料の中には貴重な研究もあります。ただし中国ではこの歴史が意図的に扱われにくい側面があります。



Q5 
アメリカはペリー来航以前から日本を詳細に調査していたのか?

A5 その通りです。アメリカは事前に徹底した調査を行い、戦略的に行動しています。ハワイ併合なども同様で、事前に弱点を調査した上で行動しており、この体質は現在にも通じています。



Q6 
なぜアメリカは日本を重要視していたのか?

A6 太平洋航路の拠点として、日本(特に小笠原・沖縄)は極めて重要だったためです。石炭補給地としての価値もあり、中国大陸との交易の中継拠点として必要不可欠でした。



Q7 
日本が朝鮮に対して行った条約締結はペリーの模倣か?

A7 その通りで、日本はペリーの手法をほぼそのまま模倣しています。これは後に「アメリカの鏡」とも言われ、日本の行動はアメリカの行動の反映であるという指摘もあります。




Q8 
薩摩藩は琉球を実質的に支配していたがペリー来航に際しどのように対応したのか?

A8 薩摩は動揺せず、むしろアメリカを利用しようとする戦略的対応を取りました。幕府と異なり、海外情報を積極的に収集しようとする姿勢があり、東日本と西日本の藩で大きな差がありました。



Q9 
幕府の外交は弱腰だったのか?

A9 一概にそうとは言えません。幕府は合議制で意思決定しており、アヘン拒否など一定の強い姿勢も見せています。交渉面でも粘り強い対応をしており、評価すべき点も多いです。



Q10 
金銀交換比率問題を幕府は理解していたのか?

A10 一部は理解していましたが、実務レベルでは情報不足がありました。特に市場レートの差を利用した利益構造が存在し、情報が共有されていなかったことが大きな問題でした。



Q11 
ジョセフ・ヒコや中浜万次郎の存在は日本にとって重要だったか?

A11 非常に重要でした。万次郎は通訳だけでなく航海技術でも貢献し、ヒコは明治以降の情報発信に大きく寄与しました。彼らの存在は日本の近代化に大きな影響を与えています。

 

ある日突然、見慣れた景色の中から、懐かしい物が消えてしまった。そんな経験をされた方は多いと思います。世の事情と言ってしまえばそれまでですが、せめて、どうにかならなかったのか、何か遺せる手段はあったのでは・・・という後悔の念だけは残ります。 個人の力では限界がある。故に、「もっと自分の町を知ろう」という共同体を創設し、有形無形の財産を次世代につなげる。これが、一般社団法人「もっと自分の町を知ろう」という団体を設立する目的です。

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