目 次
147.「月間日本8月号」載『モンゴル抑留』井手裕彦著、角川新書、2026年 146.『評伝 大川周明』滝沢誠著、毎日ワンズ、2025年 145.『露日衝突1904』朝河貫一著、初訳辻本よしふみ、訳安藤智重、イカロス出版 144.『自由民主党の誕生』福冨健一著、中央公論新社、2026年 143.『外務官僚たちの大東亜共栄圏』熊本史雄著、新潮新書、2025年 142.『団塊ボーイの昭和』矢野寛治著、弦書房、2026年 141.『朝鮮銀行』多田井喜生著、PHP新書、2002年 140.「月間日本5月号掲載」 『頭山満沈黙の昭和史』石瀧豊美著 筑摩書房 139.『ペリー日本遠征随行記』S・W・ウィリアムズ著、洞富雄訳、講談社学術文庫、2022年 138.「月間日本4月号掲載」 『合憲自衛隊』小川清史著 ワニブックス 137.『田中角栄 魂の言葉88』昭和人物研究会編、三笠書房、2016年 136.『龍馬史』磯田道史著、文春文庫、2013年 135.『侍従長の回想』藤田尚徳著、講談社学術文庫、2021年 134.「月間日本」2月号掲載『昭和の夢は夜開く』五木寛之著 新潮新書 133.『ポーツマスの旗』吉村昭著、新潮文庫、令和6年(2024) 132.『黒人に最も愛され、 FBI に最も恐れられた日本人』出井康博著、講談社α+文庫、2008年 131.『占領史追跡』青木冨貴子著、新潮文庫、平成25年 130.「月間日本」1月号掲載『真珠湾収容所の捕虜たち』オーテス・ケーリ著 角川新書 129.『かわいじゅんこのシン・人生劇場』かわいじゅんこ著、つむぎ書房、2025 年 128.『黎明の世紀』深田祐介著、文春文庫、1994年 127.「月間日本」12月号掲載『大東亜会議演説集』三浦小太郎著 ハート出版 126.「月間日本」11月号掲載『知られざる金正恩』鄭成長著 ワニブックス 125.『岩波茂雄伝』安倍能成著、岩波文庫、2023年 124.『バサラ将軍』安部龍太郎著、朝日文庫、2025年 123.『広瀬淡窓』深町浩一郎著、西日本新聞社、平成14年 122.『日露戦役秘録』東京府教育会編、博文館、昭和四年 121.「月刊日本8月号掲載」『日本を支配してきたアメリカの悪の正体』髙山正之、ジェイソン・モーガン著、徳間書店 120.『近世人物夜話』森銑三著、講談社学術文庫、1989年 119.『榎本武揚シベリア日記』諏訪部揚子・中村喜和 編注、平凡社、2010年 118.「月刊日本8月号掲載」『台湾 阿里山物語』竜口 英幸著 西日本新聞社 117.『私の昭和史(上・下)』末松太平著、中公文庫、2013年 116.『集団はなぜ残虐にまた慈悲深くなるのか』釘原直樹著、中公新書 115.『的野半介』和田新一郎著、私家版、1933年(昭和8) 114.『日本型コミューン主義の擁護と顕彰』内田樹著、K&Kプレス「 月刊日本6月号」掲載 113.『西郷隆夫の「一点」で囲む』高岡修監修、ジャブラン、2018年112.『僕には鳥の言葉がわかる』鈴木俊貴著、小学館、2025年 111.『二十歳の炎』穂高健一著、日新報道、2014年 110.『海軍大将伊藤聖一伝「大和」特攻を率いた提督』井川聡著 潮書房光人新社』 109.『柳川の殿さんとよばれて』立花和雄著、梓書院 108.『米欧回覧実記1 アメリカ編』慶應義塾大学出版会編、2008年 107.『エマソン 自分を信じる言葉』佐藤けんいち著、ディスカバー・トゥェンティワン「月刊日本4月号」掲載 106 新版『凜』永畑道子著、藤原書店、2017年、初版1997年 105.『一人一殺』井上日召著、河出書房新社、2023年 104.『大川周明』大塚健洋著、講談社学術文庫、2009年 103.「渡辺京二論」三浦小太郎著 弦書房「月刊日本3月号」掲載 102.『北一輝論』松本健一著、講談社学術文庫、2002年 101.『田中清玄自伝』田中清玄著、大須賀瑞夫インタビュー、文藝春秋、1993 100.『日本がダメだと思っている人へ』江碕道朗・田北真樹子著、ビジネス社、2024年 〔1~99は「浦辺登の書籍紹介1」に掲載しています)
146.『評伝 大川周明』滝沢誠著、毎日ワンズ、2025年
・著者遺作の大川周明から見えてくるもの 本書は著者の遺作となった大川周明の評伝だが、従前の著者が描いた権藤成卿、武田範之と比較して、非常に読みやすい。削ぎ落せるだけ削ぎ落し、それでいて従来の大川周明研究書で取りこぼした事実も拾い上げている。 大川周明(1886~1957)の生涯について俯瞰すると、実に様々な事件に遭遇し、関係している。落ち着いて過ごしたのは、精神病院での日々だったのではないか。その精神病院での発端は戦後の東京裁判での被告となったからだが、ここで奇怪な行動、言動をとる。映像でも残されているが、背後から東條英機の頭をぴしゃりと叩く様である。ここから大川の奇態は狂言、脳梅毒、米軍に一服盛られたなど、いくつもの説が起きた。大川博士という世間の評価がそうさせたのだろうが、真相は大川本人にしかわからない。 世間は大川を「右翼」と位置付ける。それは昭和7年(1932)におきた海軍青年将校の決起である五・一五事件で獄窓の人となったからだ。けれども、「皇軍の決起は農民の蓆旗」と言われるように、軍国主義を鼓舞する事件ではない。当時の政党と結託した資本家による歴史の捏造と言ってよい。大川の実際は社会主義者であり、「右翼」という範疇に収めることは極めて無理がある。 ただ、著者も述べるように大川は上昇志向の強い「学歴貴族」であるのは確かだ。権藤成卿の理論である「大化の改新」を持論のごとく陸軍参謀の前で述べることができた。参謀本部の陸軍エリートも大川博士の論に心酔したが、その背景には帝国大学という学歴が効力を発した。 評者が大川に関心を寄せるのは、五・一五事件で犬養毅首相に一弾を放ったといわれる黒岩勇の履歴を追っているからだ。三上卓、黒岩勇とともに決起した山岸宏、菅勤は大川の下にいたが、他の青年将校のその後は不明だ。変名を用いて黒岩はインドネシア独立運動に身を投じたともいわれる。しかし、真相は闇のなかだ。 大川に関係した人物として沼波瓊音(ぬなみけいおん)がいる。この沼波が「右翼」と呼ばれる人々に対し「文学に対する正しい理解を欠いていることに失望させられた」と述べている。けだし、名言ではないか。著者が存命であれば、この沼波の観点を加えて大川を評することができたかもしれない。少々、残念ではある。
145.『露日衝突1904』朝河貫一著、初訳辻本よしふみ、訳安藤智重、イカロス出版
・日本、日本人の生存権をかけた日露戦争 明治37年(1904)に始まった日本とロシアの戦争、いわゆる日露戦争の原因について、朝河貫一(1873~1948)が研究者の観点から英文で発表した論文が本書になる。朝河は東京専門学校(早稲田大学)を経てアメリカ・ダートマス大学に進学、最終的にイェール大学の教授を務めている。昭和16年(1941)の日米戦争回避を試みたが、不首尾に終わったが、アメリアにとどまり終焉を迎えている。 さて、現代日本においては日清戦争(1894)、日露戦争は日本の「侵略」戦争の始まりと教える。しかしながら、本書の冒頭から説かれる人口問題、食糧問題を見ていくと、日本及び日本人の生存権をかけた戦争であったことが見えてくる。人口問題でいえば、江戸時代のおよそ3000万の人口が明治時代になって急速に増加に転じ、それに食糧生産がまったく追いついていないことが理解できる。事実、長崎対馬藩は李氏朝鮮から米や麦を輸入していたことからも、日本は農業国であるという既成概念はもろくも崩れ去る。明治期の日本は綿織物を朝鮮、清国に輸出し、穀物や肥料を輸入していたことがわかる。特に、満洲は穀物、肥料、鉱物資源の輸入先であり、日本の生命線であった。本書には述べられていないが、明治期日本はハワイ、アメリカ、中南米などへの移民が盛んであり、朝鮮、満洲へ移住する日本人も多かった。そう考えると、日清戦争、日露戦争が単純に軍事的国防のためではなく、兵站思想も加味した戦争であったことが見えてくる。要は、経済戦争であったということになる。 そして、日露戦争はロシアによる清国(中国)の侵略であり、やがてはインドにまで到達する世界制覇の序章であったことがわかる。ロシアの巧妙な侵略の手順、謀略に義憤を覚えないほうがおかしい。さらに、ロシアの同盟国であるフランスの存在である。幕末、江戸幕府はフランスからの借款で薩長と対峙しようとしたが、そのフランスの背後にいるロシアの謀略だったのではと思えなくもない。 戦後80年余を経て、いまだ日清、日露を「侵略」戦争であったと唱える方には一読していただきたい内容であるのは確かだ。 ただ、本書は論文形式の横書きになっている。縦書きのほうが読みやすかったのではと思える。
143.『外務官僚たちの大東亜共栄圏』熊本史雄著、新潮新書、2025年
・日独伊三国同盟はドイツのアジア進出を止めるためだった 戦後80年、昭和100年の今年(2025年)、昭和という時代を考証する一つの区切りの年だ。あの大東亜戦争(太平洋戦争)に至る流れを俯瞰するにあたり、外交という観点、外務官僚の立場から検証するという本書は新たな分析手法を示してくれた。 外務官僚たちが国益を考えながら、諸外国と対峙し交渉した経過が簡潔に述べられる。その源流は、やはり小村寿太郎を祖とする「小村外交」だ。日露戦争でのポーツマス講和会議における手腕が外交の基本だからだ。その「小村外交」を小村の子息の小村欽一が受け、幣原喜重郎、重光葵、有田八郎、松岡洋右と続く。結果、「大東亜共栄圏」に至るのだが、従来の歴史書からは思いもつかなかった事実が見えてくる。 本書の肝とも言うべき箇所は第八章の「大東亜共栄圏」構想の実相だ。松岡洋右が外交史上初めて「大東亜共栄圏」という言葉を使ったとの記述に「そうだったのか・・・」と感嘆の声をあげた。意外だったのは、松岡洋右といえば欧州でのドイツ戦勝に乗じて「日独伊三国同盟」を締結し、日本を未曾有の大戦に追い込んだ人と思い込んでいた。しかし、やがてドイツがアジアに進出してくることを警戒しての歯止めが同盟だったことに驚いた。 同時に、昭和6年(1931)の「満洲事変」以降、中国大陸に乱立する蒋介石や汪兆銘「政府」との交渉に翻弄される外務官僚の苦闘ぶりが窺えて興味深いものだった。複雑に絡み合った現地の事情に、外務官僚が文化事業で衝突を回避する動きなど、歴史は多面的に見なければならないことも示唆してくれる。 読み進みながら、ふと、頭をよぎることがあった。著者は「小村外交」の継承として小村欽一を取り上げた。しかし、ポーツマス講和会議で小村寿太郎の側近であった山座円次郎は「小村外交」の内助者と称される。「小村外交」を山座で繋いだらば、大東亜共栄圏構想になったのだろうかと考えた。さほど、読み手の思考に刺激を与える一書である。
135.『侍従長の回想』藤田尚徳著、講談社学術文庫、2021年
・戦後80年、まだまだ見えない史実が隠れているのではないだろうか 本書は、昭和19年(1944)8月29日から昭和21年5月3日まで、昭和天皇の侍従長を務めた藤田尚徳の回想録だ。いわば、昭和天皇にとっても日本にとっても、終戦という最も苦難の時代を送った侍従長の記録だけに、その一文字、一言が実に重要な意味を含んでいる。藤田は海軍大将まで務めた軍人だったが、退役後は明治神宮の宮司だった。しかし、乞われて昭和天皇の侍従長に就任した。 米英を主軸とする連合国軍との戦争について、自存自衛の開戦決定は昭和16年9月6日と記されている。そして、同年12月8日未明、日本海軍機動部隊がアメリカ海軍の根拠地であるハワイを急襲した。ここで大戦果を挙げたが、その後の戦局についてはジリ貧であり、ついにポツダム宣言受諾、敗戦となった。藤田は、この敗戦にいたるまでの回想を淡々と述べるが、時に昭和天皇と側近とのユーモア溢れる様子も記述していることから、意外な面白さを感じることができる。 しかし、終戦に至る経過の中では、言葉は控えめながら木戸幸一を「貴族」と揶揄し、時に木戸が昭和天皇側近でありながら天皇を侮蔑しているのではとも疑念を抱く。この疑念は藤田だけではなく、占領軍の高官も同じ感想を述べた。ふと、この件で長州閥による明治天皇すり替え説を想起してしまった。 更に、「貴族」といえば近衛文麿も木戸と近い印象を藤田は書き記す。近衛の場合、明治維新での成り上がり「貴族」ではなく、本家本元の貴族だが、やはり、戦争責任を回避するための自身を優雅に見せる風が見えてくる。 この回想録を読み進みながら、皇太子時代から昭和天皇を神格化していく向きが政権中枢にあったことが見える。その神格化することで天皇を形骸化したのが、やはり木戸幸一であったと藤田は柔らかな言葉で評する。これは近衛文麿が昭和天皇に奏上する際、侍従長に代わって城戸幸一が側にいたことに端を発していると考えられる。それも、ウソをついて藤田を控えさせたことが55頁に記されている。 本書には終戦工作、昭和天皇とマッカーサー元帥との会談などが出ているが、127頁には原爆投下、及びその威力の凄まじさを昭和天皇が知っていたことだ。それも奏上する外相の東郷茂徳より早く、詳しく、だった。これは、皇室において海外の短波放送を受信していたからといわれる。この事実は『占領史追跡』(青木冨貴子著)を併読すれば、「ナルホド!」と合点がいく。内務秘書官長の松平康昌は敗戦後、ニューズィーク東京支局長のペケナム記者を介して、アメリカ本国の意向を昭和天皇に伝える役目を担っていた。この松平が昭和天皇側近のキーマンではなかろうか。 東條英機の戦局の見通しの甘さは有名だが、この東條を首相にと内奏したのは木戸幸一である。もしかして、木戸は「敗戦革命」を主導していたのではとさえ思えてならなかった。終戦80年を経て、まだまだ多角的に見なければならない史実があるのではと思った。
122.『日露戦役秘録』東京府教育会編、博文館、昭和四年
・外交とは相手国に友人を持つことから始まる
枢密顧問官子爵金子堅太郎閣下講演と副題が付く本書は昭和3年(1928)の夏から秋にかけて開かれた金子堅太郎の講演を収録したものだ。都合、3回、講演が行なわれており、それぞれ、およそ2時間の講演となっている。空調設備が完全ではない中、金子の講演を聞きたいという聴衆が詰めかけていることに驚く。更には、第一回目の講演は金子の都合(天皇陛下臨席の会議が長引き)で開演時間に間に合わず、延期となっている。
3回の講演内容を300頁弱にまとめているが、その講演内容は明治37年に始まった日露戦争での対米交渉、いわゆるセオドア・ルーズベルト大統領との交渉に赴いた金子堅太郎の実情を語る内容だ。
金子とルーズベルトはハーバード大学の同窓という関係だが、在学中の面識は無い。金子が政府の官僚として欧米視察に渡航する際、在日アメリカ人美術家の紹介で金子はルーズベルトと会った。当時のルーズベルトは政府の一官僚に過ぎなかったが、将来、必ず大統領になる人物と早くから期待されていた人だ。これは日露戦争が始まる15年以上も前のことであり、金子との間でクリスマスカードの交換、書簡の往来が続いていたという。 この講演録を読むと、金子が親しい友人としてルーズベルトから優遇されていることがわかる。金子もルーズベルトと私的な食事をしたり、招かれてルーズベルトの私邸に宿泊したりもしている。この金子とルーズベルトとの緊密な関係があったからこそ、弾薬も戦費も使い果たした日本とロシアとの講和が進んだと言ってよい。金子は伊藤博文の命を受けアメリカに出向くが、当初待ち受けていたのはロシアを支持するアメリカ世論だった。アメリカ・シカゴの富豪はロシア貴族とは縁戚関係にあり、旅順、ウラジオストックとの貿易で収益をあげていた。更に、アメリカ南北戦争でロシアは北軍を支援したことから、親露派が大多数だった。アメリカにはアイルランド移民も多かったが、日露戦争中のニューヨーク市長はアイルランド出身だった。北軍を支援したロシアに親しく、対外活動を行なう金子にとってやっかいな事でもあった。 ポーツマス講和条約が成立する過程は多くの書物が伝えるが、金子とルーズベルトとの関係を表す文献などは少ない。関東大震災で金子邸が被災し文書類が焼失したこともあるが、本書のように昭和4年に刊行されたものも戦災に遭遇している。更に、本書の類いは大東亜戦争(太平洋戦争)後の日本で行なわれた焚書被害にも遭った。そんななか、本書が遺っていることは奇跡なのかもしれない。 本書から見えてくるのは、外交はその相手国にどれほどの友人を持つかにかかっている。これは今も昔も変わらない。果たして、現今日本はどうなのか。金子の講演録から学ぶべき事々は実に多い。日米同盟を主張する前に、相手国の歴史も知っておかなければ同盟は名ばかりになってしまう。そう思わせる内容だった。
115.『的野半介』和田新一郎著、私家版、1933年(昭和8)
・ここにも『近世怪人伝』のモデルが
夢 野久作の『近世怪人伝』は、玄洋社の頭山満や関係があった人々との交遊録だが、中には常人には理解の及ばない人々が登場する。なかでも、魚屋の篠崎仁三郎などは爆笑ものの人物だ。こんな面白おかしく生きた「怪人」は特異な存在と思っていたら、そうではなかった。本書の主人公というべき的野半介(安政5~大正6、1858~1917)もそうだった。 的野半介の存在は玄洋社員の一人として名前は知っていた。初代玄洋社社長平岡浩太郎の義弟で、玄洋社の機関紙である「九州日報」の社長を務め、衆議院議員でもあった。更に、日本の近代国家への道程において八幡製鉄所の貢献度は大きいが、その八幡製鉄所の誘致、運営、とくに若松港の築港に大きく関係したのが的野半介だった。こう書くと、実業界、ジャーナリズムの優等生のように思われるかもしれない。 ところが、この伝記を読むと、とんでもない大飯食い。それも偏食、変態かと思うほどの食べっぷり。それでいて、酒が飲めない。貧乏な時には、正直に「金が無い」と口にするが、友人知人が金銭に窮すると、自身の全財産をなげうってでも金の工面をする。こうくると、正直実直の人と思うが、花弄(かろう)こと花札遊びが大好きという御仁。それも賭け花札を公然とやる。しかし、流石に警察幹部の注意が及び自宅で花札をする。ところが、座敷の障子を開け放して花札をする。警察も取り締まりたいが地元の名士ということでそれができない。障子の開けっぱなしも、「障子が勝手に開く」といって警察署長に弁解する豪快さ。 人の評価は柩の蓋がしまってからという。この的野半介の葬儀には一千人が参列したという。事業で多額の借金があったようだが、すべて安川家(明治鉱業、安川電機)が精算している風だ。損をするとか、儲けるとか、そんな自身のことより、国家、人々に有益であるか、ないかが的野半介の問題だった。ゆえに、頭山満が「アンナ男は作ろうとしたって作られん男」と言い切った。ともに、高場塾での同門の関係だけに、人間性については全てを知っていた頭山の言葉だった。この的野半介がいたからこそ、あの八幡製鉄所は操業にこぎ着けたと言っても過言ではない。それでいて、「オレが、オレが」というところが何もない。損得で行動しない玄洋社の面々だが、その中でもやはり「怪人」の部類に押し込みたい的野半介だ。「人はエピソードで語れ」と言うが、尾籠の話も含め、あまりに有りすぎて語り尽くせない。
111.『二十歳の炎』穂高健一著、日新報道、2014年
本書は安芸広島藩の高間省三という実在の人物を中心に据えた幕末維新小説だ。全16章にエピローグを含め300ページ余で構成されている。幕末維新史といえば、「薩摩、長州に司馬遼太郎の小説を読んでおけば事足りる」として、関心は低い。そんな世間一般の認識に抗うかのように、本書は幕末維新における広島藩の動きを語っている。史実に基づかず「定説」の如く語り継がれることへの反発が随所に見られる。このことは、評者としても大いに同意するものだ。 高間省三は安芸広島が生んだ頼山陽の再来と噂された人物だった。しかしながら、幕末の戊辰戦争に出征し、戦死してしまう。それも、幼少の頃からの許嫁を遺してだった。更には、その許嫁との間には一子があったにも関わらず。 幕末維新を一つの革命として捉えると、経済は必須だ。しかし、多くの維新史ではヒーローに武器弾薬、船舶についての記述がせいぜい。物流、兵站を含めての地政学的なものは少ない。江戸時代、日本の経済の中心は大坂(大阪)だったが、それは瀬戸内海という物流ルートがあってこそだった。しからば、その瀬戸内海の島々、港を擁する広島藩の動きは見逃せないはずだ。ところが、この瀬戸内海ルートでの幕末史に注視する史書は多くない。京の都での政治的なかけひき、騒動に話題の中心がおかれているからだ。 故に、いまだ幕末の一大トピックスである徳川幕府の「大政奉還」が土佐藩によるものと記されるのだ。「大政奉還」が広島藩を差し置いて土佐の後藤象二郎の抜け駆けであるとは、なんという結果なのか。いわゆる「歴史は勝者によって作られる」ではないが、薩長土肥によって作られた明治維新史には歪曲が多い。著者の憤りを感じながら読み進んだ。 本書の主人公高間省三が存命していたならば、帝国憲法、教育勅語の草案に加わっていたのではないだろうか。もしくは、海外留学を経て帝国大学の教壇に立っていたかもしれない。そう考えると、惜しい人物を喪ったとしか言えない。 評者には『維新秘話福岡』の著作があるが、その44ページに「勤皇論者の保護」として博多萬行寺の七里恒順住職が福岡藩に逃れきた芸備の志士を庇護したことを載せている。佐々木一郎という人物だが、多分に変名であろう。しかし、幕末、何らかの関係性が福岡藩と芸備との間に少なからずあったということだ。その動きを本書によって確認できたことは収穫だった。 最後に、高間省三という人が居たことを知らしめることは、弔いでもある。ここに本書の重要な存在意義があるのだ。
110.『海軍大将伊藤聖一伝 「大和」特攻を率いた提督』井川聡著 潮書房光人新社』
先崎彰容氏(日本大学教授)は、「何を求めれば、死の淵を飛び越す勇気をもつことができるのか」という疑問を持ったことから、西郷隆盛を追い求めた。西郷が勤皇僧月照を抱いて薩摩錦江湾に入水した事を指している。本書を通読しながら、著者の井川聡氏も戦艦大和とともに沖縄特攻を敢行した伊藤整一を西郷隆盛に重ね、本書を執筆していったのではと推察される。 今年、「昭和百年」として昭和を振り返る事々が多い。戦後復興の象徴ともいえる昭和39年(1964)の東京オリンピックは再生日本を確認することで、懐かしさとともに気分は高揚する。しかし、未曾有の大戦といわれた大東亜戦争を振り返る時、後悔の念ばかりが沸き立つ。その一つが本書に記される戦艦大和による沖縄特攻ではなかろうか。時代は艦隊決戦では無く、空母機動部隊による戦術に転換したにも関わらず、なぜ、巨大戦艦を沖縄に向かわせたのか。ここに、西南戦争での西郷隆盛率いる薩軍と戦艦大和座乗の艦隊司令官である伊藤整一が指揮官先頭として死地に赴いたことが重なる。評者は早くから著者の『軍艦「矢矧」海戦記』を読了していたことから、伊藤整一の人物像、思想を知ることになった。しかし、この伊藤整一生い立ち、親族については、詳しくは知らない。それだけに、著者が年月をかけて、一つ一つ、確認作業を進めていった事実が本書に結実したことはありがたい。序章、終章を含め全5章、500頁余の大部だが、一言一句を疎かにできない文章が続く。ある意味、現代版西郷隆盛をなぞるかのような印象すら受けた。 筆者は福岡県大牟田市にある伊藤整一の墓参をしたことがある。決して、交通至便な場所ではない。それは、伊藤が開拓農地のど真ん中で生まれ育ったことの証明でもある。本書512頁に記載がある堺修氏が伊藤の墓守をし、資料を丹念に保管収集されていたからこそ、伊藤整一の核心に触れることができた。深く感謝申し上げる。